ふとすれ違った人の香りが元彼と同じ香水で、かつての記憶が蘇る…。

貴方は、そんな経験をしたことがあるだろうか?

特定の匂いがある記憶を呼び起こすこと、それをプルースト効果という。

きっと、時には甘く、時にはほろ苦い思い出…。

これは、忘れられない香りの記憶にまつわる、大人の男女のストーリー。

▶前回:初彼のことが忘れられない。浮気されてフラれたのに…今でも女が翻弄されるワケ



Vol.5 澪(26歳)ほろ苦い恋とチョコレートの香り【後編】
CARON「タバック・エクスキ」


「澪、久しぶり〜!」

「うん、元気だった!それにしても、ここ懐かしいよね」

吉祥寺駅近くの『キャンティ セテ』。

私は、大学時代のゼミの教授の退官記念パーティーに訪れていた。

先生の退官をお祝いしたいという素直な気持ちもあったけれど、元カレの優斗に会えるかも…という、下心もあった。

彼に振られたのが21歳のバレンタインの時だから、ちょうど5年前。

単純に、彼が今どうしているのかも気になっていた。

「それでは、先生の長年のご指導への感謝と、新たな門出を祝しまして…乾杯!」

記念パーティーといっても、歴代のゼミ生の有志を集めたカジュアルな立食パーティーだ。先生と話をしている人もいれば、同期同士で盛り上がっている人たちもいる。

一橋生にとって、吉祥寺はホームだ。

学生時代のバイトや休日のショッピング、当時付き合っていた恋人とのデートなど…この場所には皆、何かしらの思い入れがある。

― 私も、よく優斗と吉祥寺でデートしたなぁ。

井の頭公園の入り口近くに立ち並ぶ店を冷やかしたり、スタバで買ったカフェラテを片手に公園内を散歩したり。私がつくったお弁当を一緒に食べたこともある。

そんな優斗は、まだこの場所に姿を現してはいなかった。

ワイングラスを持つ自分の指先をぼんやりと見つめる。今日のお昼にサロンで手入れしたばかりの爪が、つやつやと輝いている。

その時。

「すみません、遅くなりました」

カラン、と扉が開く音とともに店に入ってきたのは…紛れもなく、優斗だった。


「先生、この度は、ご退官誠におめでとうございます。先日の最終講義も素晴らしかったです」

少し離れたところで、優斗が先生と話している声が聞こえる。

優斗と先生は、世代こそ違えど音楽の趣味が合うようで、学生時代からよく2人はUKロックの話で盛り上がっていた。



私は同期の友人の輪に混ざって適当に相づちを打ちつつ、優斗の様子をそれとなく観察する。

学生の時よりも短い、黒い髪。長身にツイードのジャケットがよく似合っている。学生時代はどちらかというとひょろりと痩せている方だったが、当時よりも男性らしい体つきになったように見えた。

― 指輪は…。

思わず、左手の薬指をチェックしてしまったけれど――指輪は、していなかった。

「そういえば、澪って優斗と一瞬付き合ってなかった?半年くらい?」

ふと思い出したように、ゼミの同期が私に話を振ってきた。

「いや、結構しっかり付き合ってたよ。1年半くらいかな」

「へえ、優斗と澪ってそんな長かったんだ。別れてからは会ってた?」

「俺がなんだって?」

「わっ!びっくりした」

ナチュラルに優斗が話に入ってきたから、驚いてグラスを取り落としそうになってしまった。そんな私を見て、優斗は「相変わらずだな、澪は」とおかしそうに笑う。

「久しぶり。元気だった?」

「う、うん。まぁ…。優斗は?」

周りの友人たちは気を使ってか、気づけば2人になっていて…。

「とりあえず、乾杯しようよ」

5年ぶりに、私たちはきちんと話をする流れになった。



「ここのピザ、いいね。うまい。仕事の後だから、どんどんお腹に入るわ」

「このソテーもおいしかったよ」

マリナーラを口に放り込む優斗に、店員さんがイチオシだと言っていた「匠の大山鶏のガーリックソテー」を私は勧めた。

気取らない、アットホームな雰囲気のお店のおかげで、なんとか場をつなげられている気がする。

― 会いたいとは思っていたが、振られた立場の私から何を話せばいいのか、全然わからない。

ふと、優斗が私の顔を覗き込んでくる。

「澪、そんなに怖い顔しないでよ。5年前のことは…俺、悪かったなって思ってる」

「う、ううん。全然。気にしてないし…」

至近距離でじっと目を見つめられて、思わずドキドキしてしまう。今の彼氏の健介には感じない、新鮮な緊張感だった。

「澪が先に試験に受かっちゃって、どうしていいかわからなかったんだ。

今から思えば、自分に自信がなかったんだと思う。ずっと目指してきた資格に落ちて、『自分にはもう何もない』って落ち込んでた」

「そうだったんだ…」

公認会計士試験の後、合格発表を前にしてすでに、優斗は試験に落ちたことをほとんど確信していたという。

翌年の予備校代を稼ぐためにバイトを増やして働いていたなか、私だけが先に合格してしまった。落ち込んでいるところに、バイトの後輩からアタックを受けて…。

「結局、澪と別れた後その子と付き合ったんだ。すぐ別れちゃったんだけどね。その後も、なかなか1人の人と長く続かなくて」

その言葉に、つい嬉しくなってしまっている自分がいる。

健介という彼氏がいるのに一体自分は何を考えているんだろう、と頭では思うものの――実際、久しぶりに会う優斗に…私は、心惹かれてしまっている。

「公認会計士は諦めたけど…そのおかげで今の仕事ができているから、全然後悔してないよ。外資に転職もして、だいぶ稼げるようになったしね」

優斗はにっこりと笑う。その笑顔からは自信が滲み出ていて、たしかに5年前の彼とは全然違う印象を受ける。思わずぼうっと見とれていると、彼はグッと顔を寄せてきた。

「澪は……。すごく、綺麗になったね。正直、ドキっとした」

― え?

私もドキッとした。

「えー、皆さん。宴もたけなわですが、そろそろお開きの時間になってまいりましたので…」

幹事の大きな声がした瞬間、優斗はパッと体を離した。私に目配せをして、肩をすくめる。

まるで…私からの好意を確信しているかのような素振りだった。


「この後、二次会行く人はこっちでーす!」

幹事が大きな声を張り上げる。

すっかり上機嫌の先生も一緒に行くと見え、先生を中心に人だかりができていた。

「……澪」

駅に向かおうか迷っていると、優斗が駆け寄ってくる。

「せっかくだから、もう少し飲まない?」

優斗も少し酔っているのだろうか、グッと肩を抱かれた。

その時…さっき顔を近づけられた瞬間に感じた違和感を、また覚えた。

彼の匂いが、記憶していたものとは全然違っていたのだ。優斗の記憶といえば、『CARONのタバック・エクスキ』のビターチョコレートのような香りだった。

でも今は、どこか少し軽くて、甘さの強い匂いがする。

「優斗、昔つけてた香水はやめたんだね」

「え?ああ、まあね。すごいね、覚えてたんだ」

どこか嬉しそうに彼は言う。

「なんか、俺飽きっぽいのかな。色々試してるけど、なかなか1つの香りに定着しなくて。今つけてるのも、最近買ったばかりなんだよね。学生の時はまあ、金もなかったからずっと同じやつつけてたけど」

彼の言葉をぼんやりと聞きながら、私はふと健介の言葉を思い出していた。

「ずっと使ってたものが廃盤になっちゃったから」と、寂しげに微笑んだ顔。

でも、CARONのタバック・エクスキを手にしてた健介は満足そうにも見えた。

「この匂いと長く付き合っていきたいな」と、嬉しそうにボトルを撫でていた。

「でも、澪があの香りが好きだったなら、もう一回アレに戻そうかな〜」

「ごめん、優斗。私やっぱり帰るね」

グラグラしていた心が、ようやく落ち着いた。

優斗は、たしかに過去一番大切だった人。お互いの歯車がうまくかみ合わなくて、別れてしまった。

それはすごく残念で、心残りだったけど…。今、なんだか吹っ切れた。

優斗と別れたおかげで健介に出会えたことに、感謝したい。きちんと健介と向き合って、ふわふわと他の人に心動かされず、長く彼を愛したい。

そう強く思ったのだ。





「澪?急にこっち来たいって言うなんて、珍しいね」

居ても立ってもいられなくなって、自分の家に帰らず、代々木上原の健介の家に向かった。

23時半を回っていたけど、健介はまだ起きていた。

愛用しているLOB SALTZMANのワンマイルウェアに、暖かそうなガウンを羽織っている。読書していたらしく、ソファには読みかけの本が開かれたまま置いてあった。

「ごめんね。なんか急に会いたくなっちゃって」

「なんだよ〜、かわいいこと言うじゃん」

嬉しそうに笑う彼。この打算のない、優しい笑顔が好きだ。

この人なら信用できそう、ずっと安心して一緒にいられそう…初めて会った時、直感的にそう思った。だから、もう一度恋愛してみようと思ったのだ。

彼にギュッと抱きしめられた瞬間、香水の香りがふんわりと鼻をかすめた。

「…この香り好き」

「タバック・エクスキはね、つけた瞬間はビターな苦い香りがするんだけど、時間が経つと少しずつシナモンの甘みのある匂いが出てくるんだって。面白いよね」

甘いけれど甘ったるくはない、スパイシーなピリッとした甘さ。

香水は、つける人によって香りが変わるというが、健介の香りは、少し甘みがあって落ち着く。



「私も、この香水買おうかな」

思わずポツリとつぶやくと、健介は「気に入ったの?」とおかしそうに笑った。

「でも、買っちゃダメだよ。買って手に入れちゃったら、俺に会う理由が1つ減っちゃうでしょ」

いたずらっぽく笑う彼に、愛おしさがこみあげてくる。

― 『バレンタインなんて、もうこりごり』って思ってたけど。

来週のバレンタインは、健介になにかつくってあげよう。

彼の腕の中で、私はそんなことを考えていた。


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▶1話目はこちら:好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実