その姿を変えながら進化と発展を繰り返す渋谷に、自身も祖父母の代から住まうという現区長・長谷部 健さん。

かつて広告代理店で磨いた慧眼で、その魅力を分析していただきつつ、来るべき渋谷の未来像なども伺った。


生粋の「シブヤ人」渋谷区長・長谷部 健氏


1972年生まれ。新卒で入社した博報堂在籍時はタワーレコードの広告などを手掛けた。なお箭内道彦さんは当時の先輩。

退職後はゴミ問題に関するNPO法人green birdを設立。2003年に渋谷区議、2015年に渋谷区長に当選し、現職。




地元シブヤを活性化し、“シティプライド”のある街へ


「サグラダ・ファミリア」か、渋谷駅か。ここ数年の渋谷駅周辺は常に工事中で、その完成が一体いつになるのかわからないほど。

すでに「渋谷スクランブルスクエア」や「MIYASHITA PARK」など、象徴的なスポットが誕生しているが、そんな再開発事業も2027年に終了が予定されている。

その頃の渋谷は今とどう違っているのだろうか。そんな渋谷の未来を伺うべく、宇田川町にある渋谷区役所の区長室へと向かった。

現職の渋谷区長、長谷部 健さんは、大手広告代理店、博報堂で数々の案件を手掛けたのち、NPO法人の活動や渋谷区議会議員を経た人物。一般的な政治家のキャリアとは一線を画す存在だ。

しかも、祖父母の代から、裏原エリアである神宮前にお住まいという生粋の「シブヤ人」。

そんな渋谷の語り部として、これ以上ない存在である長谷部区長の目に、今の渋谷はどのように映っているのか。


まずは地元・渋谷での原体験を聞いてみた。

「地元は表参道の裏手で、統廃合でなくなってしまった旧原宿中学校が母校でした。

スポーツに明け暮れていた学生時代ですが、ファッションは、DCブームののちに渋カジ・アメカジが流行していました。

当時、古着派だった僕は、原宿、渋谷、代官山などで、デニムを探したりして、うろついていました。今思えば、109から道玄坂の向こうのエリアは、大人になったら行く場所だと思っていたり。

ショッピングや食事だけでなく、塾にも通っていたので、渋谷にはお世話になりましたね」


1972年生まれの区長の青春時代は、いわゆる「チーマー世代」に該当する。

まさに渋谷はその中心であったが、そんな血気盛んな街の活気も目の当たりにしていた。

「確かに、いわゆる“○○狩り”みたいなこともありました。ただ、怖いのはよそから来た人の方が多かった印象です。僕は、絡まれないようにひっそり通っていました(笑)」

そんな中、地元ゆえに気づかなかった街の魅力に次第に気づくように。それは、他者の目を通じて自分の中に芽生えていったと話す。


「雑誌やテレビ、ドラマの撮影が、街のあちこちで日常的に行われていましたし、お洒落な人、格好いい人たちもたくさん歩いていた。それが地元の僕らの“普通”でした。

でも、徐々に自分の世界が広がり、他の地域の人たちと触れ始め、“地元が原宿”という話をするたびに“羨ましい”“いいな”“遊びに行きたい”と言われるようになるんです。

そうか、いい街なのかとうれしくなると同時に、客観的に見られるようになりました。実際にいい場所は山ほどありますから。そんな街に住める自分はラッキーだなとも思いました」

他者との関係の中で我が街の見方が変わる。そんな稀有な体験が今にも繋がる。

区長が公の場でたびたび口にする「シティプライド」という言葉がある。

自分の街に誇りを持つことを意味するが、まさに、誇りの持てるほどのいい街をつくるために尽力している彼の原点は、こうした自身の体験にあるともいえそうだ。



変わりゆく街の、その原点は歴史にあり


折しも昨年、渋谷区はちょうど区制施行90周年を迎えた。

渋谷町と千駄ヶ谷町、代々幡町の3つが合併して生まれた渋谷区の歴史についても語ってくれた。

「渋谷はかつて田舎でした。道玄坂の名前が、室町時代の追い剥ぎ、大和田道玄に由来する説もあるほどです。箱根ではなく渋谷で追い剥ぎ?と、ショックを受けました(笑)。

今でこそ道玄坂は繁華街ですが、電灯が入り、商業地として栄えたのは明治の末からだったそうです。それまでは辺り一帯が暗く、治安も良いとは決して言えなかったでしょう。

今はなき、お好み焼き屋『こけし』の女将でエッセイストの故・藤田佳世さんの著書『大正・渋谷道玄坂』を読むと、何もないところから夜店が出始め、街が賑わいを見せていく様子がよく分かります」

区長が大好きだという「代々木公園」は、かつては「ワシントンハイツ」という米軍の施設だった歴史を持つ。

アメリカの所有地だったこの一帯は、1964年に開催された「東京オリンピック」の前に返還され、選手村や「代々木体育館」となったほか、大会終了後にはNHKや「渋谷区役所」、「渋谷公会堂」へと姿を変えた。



「そもそも、大正時代には明治神宮ができるほどですから、そのあたりには広大な原っぱがありました。

それに、『鍋島松濤公園』あたりはいわゆる外様から払い下げられた土地という点も渋谷が田舎であった証だと思います。

戦後、米軍の将校たちの宿舎だった『ワシントンハイツ』の存在はやはり大きくて、彼ら相手の商売が成り立ったわけです」

話によれば、奥渋エリアに本店があるクリーニング店の『白洋舎』や、原宿駅前のマンション、コープオリンピアの1階にある中華料理店『南国酒家』はその名残だという。

「渋谷という街は、和の文化の上に洋の文化が複層的にフュージョンした独特な街です。京都や鎌倉のように200年、300年と続く老舗がないのも、新たなものが生まれやすい理由のひとつかもしれません」

変わり続ける都市の宿命は、こうした歴史の賜物かもしれない。

「昔懐かしいものが失われていく寂しさは当然ありますが、トータルで見ればポジティブに感じています。

昔はここで一旗揚げようという、上向きなマインドの人が数多く集いましたから、今後も街が持っているそうしたエネルギーは大切にしていきたいと感じています」


ワクワクする渋谷=未来に挑戦する街


街のDNAを感じながら、未来へとバトンを繋ぐ役割を担う区長。大人が楽しめる街としての未来像をどう描いているのだろうか。

「たとえば、再開発の一方で古き良き“百軒店”や“のんべい横丁”などもあります。ふらっと寄って、飲んで食べて帰る。

あの佇まいはユニークですが、老朽化を考えると将来的には安全性に不安が残る。建物の維持が難しくなったときにどうするか。このあたりも課題です。

コンセプトはそのままに形を変えて継続させていくことも一案かなと思います」

再開発事業は、「都市の課題解決の側面がある」と区長。渋谷駅東口の地下に雨水を貯める貯留槽を設置し、浸水しやすい谷底地形の弱点を解消する話はよく知られるところ。

そういった都市基盤などの整備を行うことで、容積率1,400%を認可して、高層建築を実現させているのだ。

「都市の課題解決と発展を同時に行えるのが理想的です。

僕の原点にはストリートカルチャーがありますので、裏通りの路面店などに対しても、文化発信のインセンティブを設けながら、都市の耐震力を高めるようなルールづくりを準備しています」

続けて、広告代理店出身らしく渋谷の魅力をピーアールしてくれた。

「今、渋谷という名が包括するエリアは広がっています。もちろん渋谷区なので当たり前ですが(笑)。

たとえば、西参道の価値を高める新プロジェクトや、玉川上水旧水路緑道を“ファーム”をテーマに再開発するプロジェクトなどが進行しています。

“遊んでよし"という街から、“住んでもよし”という魅力を追求している最中。渋谷の価値を高めていくチャレンジをどんどん提案していきたい。

この街を好きになっていただけたら、いずれは住んでいただきたいのが、区長のホンネです(笑)」

区長という重責を担いながら、気のいい兄貴のように存在感も語り口も実に軽やか。

そんな区長の存在が、今の渋谷を象徴しているとも言える。今後もその動向に注目していきたい。



【長谷部区長、オススメな大人のお店を教えてください!】

ワインが合うモダンチャイニーズ『琉球チャイニーズ TAMA』


「店主が小中学の同級生で、店のオープンから深く関わったので、“自分の店”くらい愛着があります。遅くまで開いているのも魅力。最近は蒸し野菜が好きですね」