夜が明けたばかりの、港区六本木。

ほんの少し前までの喧騒とは打って変わり、静寂が街を包み込むこの時間。

愛犬の散歩をする主婦や、ランニングに勤しむサラリーマン。さらには、昨晩何かがあったのであろう男女が気だるく歩いている。

そしてここは、六本木駅から少し離れた場所にあるカフェ。

AM9時。この店では、港区で生きる人々の“裏側の姿”があらわになる…。

▶前回:カフェで堂々と別れ話をするカップルに遭遇。思わず聞き耳を立てた女が、恥ずかしさに頬を赤らめたワケ



Vol.10:智美(29歳)「もう疲れちゃった…」


「ここに来るのも、今日が最後か…」

18歳で上京してきて11年。人生の半分近くを東京で過ごしてきた。

― 東京最後の日は、やっぱりあの場所で過ごしたい。

そう思った私は、週1回は必ず行っていた六本木のカフェに立ち寄ることにした。

それはミッドタウン近くの、緑が生い茂ったテラスカフェ。焼きたてクロワッサンの香りが店内を包むこのカフェには、私の思い出がたくさん詰まっている。

仕事でうまくいった日、大好きな彼氏と別れた日。女友達と騒いだ日や、未来に不安を覚えて1人泣いた日。嬉しかったときや悲しかったときの感情が、ここに来るだけで鮮明に蘇るのだ。

初めてこのカフェを訪れたのは、会員制バーでのアルバイト初日のことだった。

六本木は、右を見ても左を見てもオシャレで洗練された人ばかり。

自分もちゃんとこの街の一部に溶け込めているのだろうか。そんな不安を落ち着かせるために飲んだ温かいカフェオレは、優しい味がしたのを今でも覚えている。

私はあのときと同じホットカフェオレを注文して、あの日と同じ席に座った。熱いカフェオレを一口飲んだとき、ふと元カレの海のことを思い出す。

― そっか、あのバイトで海と出会ったんだ。海、今頃どうしてるかな。

当時バーテンダーをしていた海は上智大学に通いながら夜はバーで働き、自慢の語学力をバイト先でも発揮していた。

彼からの猛アプローチをキッカケに付き合いだしたけれど、その1年後には浮気が発覚。ハイスペックでモテるのをいいことに、私の知らないところで好き勝手遊んでいたみたいだ。

当時は大喧嘩して別れたけれど、10年近く経つとツラい記憶もほとんど消えている。

今の彼がどうしているか気になってInstagramで検索してみると、まさかの投稿が目に飛び込んできた。


最新の投稿には、なんとタキシードを身にまとった海の写真が載っていたのだ。彼の隣には、純白のドレスを着た若くて可愛らしい新婦が写っている。

― ふーん。あんな浮気男でも結婚できるんだ。

海は大学卒業後、外資のIT企業に就職した。今の年齢からすると、どんなに少なく見積もっても年収1,000万はあるだろう。

それでいて整った顔立ちをしているのだから、モテないわけがない。優良物件だからか、浮気癖があろうと結婚相手には困らないようだ。

一方の私は、結婚はおろか彼氏すらできる気配がない。

海の幸せそうな人生と比較すると、自分の今の暮らしぶりがあまりにもお粗末すぎて涙が出てきた。



慌ててInstagramのアプリを閉じた、そのとき。なんと3年前に関係を絶った、別の元カレからLINEが届いた。

『智美ちゃん、久しぶり。有希ちゃんから聞いたけど、地元帰るんだって?』

サロンモデル時代に仲良くなった美容師・有希の紹介で出会ったのが、サロンオーナーの航平さん。海と別れた後に出会った彼は、40代後半とは思えない若々しさと大人の余裕が魅力的だった。

当時の唯一の悩みといえば、航平さんに奥さんがいたということ。

そういう関係になってしばらくした後、彼からシレッとカミングアウトされた。「ヒドい!」と怒ったけれど、すでに好きになった後でもう後戻りできなかった。

いけないことだとは、わかっていたけれど…。月に1度は高級ホテルでデートしてくれたし、ハイブランドのバッグもプレゼントしてくれた。だから離れがたかったのだ。

それでも将来のことを考えて、26歳の誕生日に自分から別れを切り出したのである。

以来、3年も連絡していなかったのに。一体、何の用だろう。

『はい、今日帰ります』

『そっか…。東京からいなくなると思うと寂しいな』

『そうですか』

当時の私では考えられないほどの、そっけない返信をする。すると、即座にこんなメッセージが返ってきた。

『もし、よければなんだけどさ。最後にご飯食べに行かない?』

― この期に及んで、まだそんなことを言うなんて。

あわよくば、最後にもう一晩だけ。そんな航平さんの心の内が透けて見えるようだった。

『いえ、奥様に悪いのでもう会えません』

私は一言そう送って、そのまま彼のLINEをブロックした。



全国に35店舗を構える、大きなヘアサロンのオーナーである航平さん。

彼が奥さんと離婚して、今度は私が経営者である彼を支える。そういう夢をひそかに持っていたこともあった。

― 東京で出会ったすごい人と結ばれれば、自分の人生も簡単に成功するはず。

それは、自分の力で東京という街を生ききれなかった女の浅ましい考えだった。

キラキラした人生に憧れて挑んだ、東京生活。だけど私は結局、何かを成し遂げることも誰かの特別な人にもなれなかったのだ。

さらに落ち込んだ私は、ぬるくなったカフェオレに口をつける。そのとき、思わず呆然としてしまう出来事が起きたのだ。


実家に帰ろう。そう決めたのは、マンションの更新が差し迫った3ヶ月前のこと。テラスから風に揺れる木々をボーッと見つめ「これで良かったんだよね」と心の中で何度もつぶやく。

するとそのとき、後ろからいきなり肩をトントンと叩かれた。

「あの、お1人ですか?」

「えっ…?あ、はい」

「急にすみません、あまりにもお綺麗だったから声をかけちゃいました」

自信満々といった雰囲気の男が、ニヤリと笑いながらそう言う。

― なんだか面倒くさそうな人に話しかけられちゃったなぁ。

あからさまに嫌がるのもさすがに感じが悪いと思い、私は少しだけ会話することにした。…しかし、それは逆効果だったようだ。



洋と名乗った男は遠慮することなく居座り、あろうことか20分以上もベラベラと話し続けたのだ。…もういい加減、離れたい。

「すみません、私もうそろそろ行かなくちゃ」

「そうなんですか?残念だな、もっと話したかったのに…。良かったら連絡先を交換しませんか?」

― え〜。もう、面倒くさいな。

私は東京を離れることを理由に、連絡先の交換を断る。すると引き下がってくれるかと思った彼が、意外な提案をしてきたのだ。



「それなら今後こっちに来るときは、俺の家へ来たらいいよ!東京までの交通費も出してあげる。なんなら都内に2つ家を借りてるから、もう1つの家に住めばいいよ。生活には困らせないし!」

― えっ。この人、私を囲おうっていうの?

「生活に困らせない」なんて甘いセリフ、女なら一度は聞きたいもの。だけど実際にその言葉を告げられても、何にも嬉しくなかった。

こんな形で出会ったばかりの素性もわからない男に言われたって、心が動くわけがない。

「いい加減にしてください。みっともないと思いませんか?

私は生活が苦しくてここを離れるんじゃありません。ここにはお金やステータスを振りかざして好き勝手するような人しかいなくて疲れたから、帰るんです」

見知らぬ人に対しては言いすぎかもしれないと思いながらも、語気を荒らげてその場を後にした。

― お金やステータスを振りかざして好き勝手するような人しかいないって…。私、偉そうだよね。

だってお金もステータスもない私が、自分の足りない部分を補うかのように求めていたのは、紛れもなく洋のような男だったから。

「…もっと、自立しなきゃな」

私はこの瞬間、思い直した。

今日これから、私は東京を離れるけれど…。決して田舎に逃げ帰るわけじゃないんだ、ということを。

明日からは自分自身の生き方を見直し、もっと東京にふさわしい女になって帰ってくるための準備期間だと思えばいい。

次、港区に住むときには、ちゃんとこの街にふさわしい生き方をしていたいと心から思った。

Fin.


▶前回:カフェで堂々と別れ話をするカップルに遭遇。思わず聞き耳を立てた女が、恥ずかしさに頬を赤らめたワケ

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