木野瀬凛子、31歳。

デキるオンナとして周囲から一目置かれる凛子は、実は根っからの努力型。

張り詰めた毎日を過ごす凛子には、唯一ほっとできる時間がある。

甘いひとくちをほおばる時間だ。

これは、凛子とスイーツが織りなす人生の物語。

◆これまでのあらすじ

大手広告代理店営業部に勤める木野瀬凛子、31歳。得意先の大手食品メーカー広報部・秋坂と共に買ったケーキをひとり自宅で味わっていると、突然インターホンが鳴った。

▶前回:「あなたの浮気のせいで破局したのに…」元彼が臆さず送ってきた、とんでもないLINEとは?



Vol.6 特別な夜を連れてきた、特別なサブレ


インターホンには母親が映っている。

「え、お母さん?…どうぞ」

「解錠」のボタンを押しながら、凛子は混乱した。

― なんで?

そのまま立ち尽くしていると、しばらくして玄関先のチャイムが鳴る。

駆け寄ってドアを開いてみると、母親の笑顔があった。

「久しぶりね」

「お母さん…一体どうしたの?」

「何回も電話したのに、出ないんだもん」

まったく回答になっていないが、母親はなんだか疲れた顔をしていた。凛子は、労るほかないと思って、来客用のスリッパを並べる。

「ごめん、スマホ見てなかった。あがって」

スマホはサイレントモードにしていたのだ。昌文からの連絡が届くのが疎ましかったから。

それに、秋坂と買ったホテルニューオータニのケーキに集中したかったから。

「突然ごめんね、凛子。今日は仕事の用事で東京に来ていたの。

でも新幹線が信号トラブルで、止まっちゃって」

母親は現在、名古屋の国立大学で教員をしている。

「新幹線以外の方法で帰ろうと思ったけれど時間がかかるし、ホテルに泊まってもよかったんだけど。

せっかくなら凛子のところに行こうって思ったの。こういうときに凛子の顔を見なかったら、いつ見れるんだろうって」

「…それはそうね。久しぶり」

母親とは、3年ぶりだ。

誕生日と母の日には、決まって花とお菓子を贈っている。元日には電話もする。

でも、ここ数年はそれだけの関わりだった。

仲良し親子、とは程遠いと思っている。


昔から凛子は、母親にぼんやりとした緊張感を覚えるのだ。

思い当たるのは、学生時代に母親がいつも、「勉強」「部活」「入試」「就活」の話ばかりをしてきたことだ。

うるさく口出しをするわけではないものの、いつも細かい状況を確認してきた。

だからなのだろうか。期待に応えようという義務感が芽生え、母親の前では自然と背筋が伸びるようになってしまった。

母親は凛子の部屋を見回し「相変わらずキレイなお部屋ね」と微笑む。

「お父さんは元気?」

「ええ。相変わらず釣りばっかりしてるわ」

「そう。…お茶淹れるから、ソファでゆっくりしてて」

キッチンに移動しながら凛子は思う。

母親のことが苦手なわけではない。でも2人きりになると、何を話していいかわからなくなる。

昔からそうだったが、離れて暮らすようになって、気まずさに拍車がかかった。



― 気まずいし、お茶飲んだらお風呂を沸かして、入ってもらおうか。

そう考えながら淹れたお茶を運んでいた凛子は、ふと足を止める。

目に入ったのは、青く、つややかな紙袋だ。

「ねえ、それって…」

声がうわずったのは、大好きな『エシレ・メゾン デュ ブール』の紙袋だったからだ。

「ああ、今日、手土産にいただいたのよ。

しかも打ち合わせに欠席者が出て、2缶もあるわ。凛子、いる?」

「うん」

とても子どもっぽい声が出た気がして、ごまかすように咳払いをした。

「じゃあ1缶は今から一緒に食べましょう。残りの1缶は、凛子にあげる」

「いいの?開けていい?」

母親が紙袋をテーブルに置く。

同時に、テーブルの上にある食べかけのケーキにようやく気づいたようで、「あら、もう甘いもの食べてるじゃない」と笑った。

「ううん。私、いくらでも食べれるから」

「相変わらず好きねえ」



サブレ缶を開け、バターの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、サクサクとした食感と音を堪能する。

― 完敗だ…この風味‥!

後を引く美味しさに、すぐに次の1枚へと手が伸びた。

スイーツがあるだけで場が華やぎ、重く感じられた空気も不思議と和らぐ。

「あら、おいしいわね」

「ホント、最高」

凛子はケーキと交互にバターサブレを食べる。背徳感が、気持ちを高ぶらせる。

「お母さんの仕事は、順調?」

「ええ。去年まではオンライン講義に慣れなくて困ってたけれど、最近の講義はほとんど対面になって、よかったわ。

凛子の仕事は?」

「私も順調よ。上司も部下も、得意先もいい人だし。

昇進してからは思った以上に忙しくて、毎日必死だけれど」

「頑張りがいがありそうで、いいわね。体だけは壊さないようにね」

母親は、ふと深刻な表情になる。

「もう、凛子も31歳よね」

そのあと、妙な間ができた。

年齢の話が出たので、結婚について聞かれるかと思い、凛子はつい身構える。


しかし母親は、結婚とはまったく違う話題を口にした。

「大人になった凛子に今さらかもしれないけれど、聞いて。

お母さんね、今になって思うのよ。凛子に、お母さんのエゴを押し付け過ぎていたんじゃないかって」

「エゴ?」

「勉強しなさい、部活がんばりなさい、一流の学校に行って、一流の仕事につきなさい」

母親は冗談っぽく昔と同じ口調で再現すると、宙に向かってひとりため息をついた。

「あんまりいい母親じゃなかったと思うわ。

一流かどうかなんて凛子が決めればいいのにね。でも、胸を張れる子になってくれてありがとうね」

誇らしげに顔を見られて、凛子は照れる。

「…こちらこそ」

凛子が学生時代から大きく成長しているように、母親だって成長しているのだろう。

こんなふうに穏やかに話せるなら、自分の近況をもっと話してみてもいいように思えた。

「実は私、ちょっと前に、彼氏と別れたの。理由は向こうの浮気」

母親は困り眉になった。次の言葉を待っている様子だ。

「別に傷ついてはないから心配しないで。

彼は会社の大先輩だったから、一緒にいるとなにかと背伸びが必要で疲れたし、離れてほっとしてる」

「そう」

「うん。まあ、たまに寂しいけれど、戻りたいとは思わない」

なぜか今日は、赤裸々にいろいろ話せる。

すると母親は言った。

「お母さんね、実はお父さんと付き合う前に、結婚を真剣に考えた相手がいたわ」



「え?」

母親の、父親以外との恋愛話など、聞くのは初めてだった。

「大学で出会った、とってもハンサムで凛々しい性格の人だった。

大好きだったけれど、だからこそお母さんは、いつも彼の言いなりで」

遠い目をしたまま、母親はサブレを口に運ぶ。

「いつも内心、好かれなきゃってビクビクしてたのよ。

彼ととっても結婚したかった。でも同時に、相手の顔色をこんなにもうかがわなきゃいけない人生も嫌だなって思ってた」

「へえ…」

「そんなときにね、彼が他の若い子とデートしているのを知って、それでケンカ別れよ」

凛々は軽く目を見開く。まるで、昌文と自分のようではないか。

「でも、その直後に出会ったお父さんは、その彼とはまるで違ったわ。

いつも私を気遣ってくれて、たくさん褒めてくれて。『気に入られよう』なんて思わないでも自信が持てたし、私らしくいられた」

「うん。お父さんといるときのお母さん、そんな感じするかも」

母親は「まあ、大学の彼のほうがハンサムだったけれど」と茶目っ気たっぷりに笑う。

「だから凛子、別れてよかったんじゃない。

結婚するかしないかは別として、一緒にいて癒やされる人に出会えたらいいね」

そう言われて、凛子はなんだかほっとする。母親に賛同されるとうれしくなるのは、昔からの癖なのかもしれない。

「まだ結婚してなくて、ごめんね。ひとり娘だし、お父さんもお母さんも、孫の顔を見たいでしょう」

母親はあくまで穏やかに「そんなこと、いいのよ」と言う。

「だって、凛子の人生だもの。お母さんは、ようやく気づいたの」

「ありがとう」



順番にお風呂に入ったあと、凛子はベッドに母親を呼んだ。

昌文と付き合ってすぐの頃に買った、キングサイズのベッド。

別れてから、こんなかたちで役に立つだなんて思わなかった。

「凛子、おやすみ」

「うん。おやすみなさい」

今日が、こんなにいい夜になるとは思っていなかった。じんわりと興奮が胸に残っていて、凛子はなかなかまどろめない。

でも、漠然とした孤独が和らいだからか、とても呼吸がしやすかった。

しばらくすると、真横から母親の小さな寝息が聞こえる。



カーテンの隙間にのぞく、窓の外の月を見た。

― 「一緒にいて癒やされる相手」ね…。たしかに、私には必要かも。

男女問わず、もっと自分から人と距離をつめることを、学んだほうがいい。なんとなく、そう思った。

そういえば、エシレのサブレはもう1缶残っている。

週明け、スイーツ好きの後輩・美知におすそ分けしようと思いながら、いつのまにか眠りについた。



翌週の月曜。

お昼休みに美知とスイーツを堪能していたとき、凛子の電話が鳴った。

その電話が告げたのは、凛子にとって驚きの一報だった──。


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凛子が受け取った電話の詳細とは…?