レストランに一歩足を踏み入れれば、私たちの心は一気に華やぐ。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:神楽坂在住の33歳女。お泊まりはするけど「私たち付き合ってるの?」と聞けないまま7年が過ぎ…



Vol.31 永遠に結婚を決めない同棲相手に苛立つ麗香(34)


金曜20時。仕事で疲れ果てて帰ってきた私は洗面所で愕然としてしまった。

私の足元には、脱ぎっぱなしの靴下が落ちている。

「ちょっと大ちゃん…。なんでまた靴下を脱いだままなの?あと一歩のところに洗濯機があるし、目の前に洗濯カゴもあるじゃない?なんで?」

仕事帰りにジムへ寄ったのだろう。シャワーを浴び、さっぱりした様子で呑気にビールを飲んでいる大輔に、私は落ちていた靴下を片手に突っかかる。

「あれ〜ごめん!洗濯カゴに投げ入れたつもりだったんだけど…ゴール、外しちゃった(笑)」

ヘラヘラと笑う大輔に、さらに怒りが込み上げてきた。

「大ちゃん…。本当になんなの?ちゃんとしてよ」

同棲してもう3年が経つ。ルーズな上に、2人の関係も“ちゃんと”してくれない彼がより一層腹立たしく思えた。

「麗香ごめん…。でも今日はせっかくの金曜だし!ご飯は食べた?せっかくだからどこか飲みに行かない?」
「そんな気分じゃないから!」

バタンと寝室の扉を閉め、思わず下へしゃがみ込んだ。

― 私、何やってるんだろう。

この1年くらい、結婚を決めない大輔に常にイラついている気がする。


翌朝。キッチンからの物音で私は目が覚めた。今日はゆっくり寝たかったのに、時計を見るとまだ朝の9時だ。

「おはよう…」

ダイニングテーブルには、朝食が並べられている。

「麗香おはよう!目が覚めちゃったから、朝ご飯でも作ろうかなと思って。今コーヒー淹れるから、麗香も着替えておいでよ」



体格の良い大輔が、キッチンで一生懸命背中を丸めながら卵焼きを作っている姿に、愛おしさを感じる。とはいえ、なぜこんなに朝が早いのだろうか…。しかも和食だったらコーヒーは食後がいい。

「大ちゃんありがとう。でも…早くない?私もう少し寝たいんだけど…」
「うわ、ごめん!置いておくから後で食べな」
「わかった。とりあえず勝手にやっといて。起こさないでね」

鼻歌交じりで上機嫌な大輔を見ながら、ため息が漏れる。

― 私たちって、なんでこんなにタイミングが合わないんだろう。

大輔と出会ったのは、もう5年も前のことになる。そこから交際に発展し、同棲を開始して3年…。

お互い好きな気持ちに変わりはないはず。でも何年経っても大輔は「結婚しよう」とは言ってくれず、私がつついてもうまくはぐらかされてしまう。

「仕事が落ち着いたら」「もう少しだけ待っていて」。何度そう言われたことだろうか。

― このまま一緒にいて、未来はあるのかな。

優しくていい人だけれど、一緒に生活をしていく上ではルーズな部分も多い大輔。きっと大輔も私に不安はあると思う。でもいつも喧嘩を売るのは、私からだった。

「…やっぱり今食べる」
「はは。そっか。食事はできたてが美味しいからね。ちなみに麗香、来週土曜の夜って忙しい?」

最近、私も大輔も会食が多くて二人での食事は基本的に家が増えていた。しかもお互い「胃を休めたい」と言って、ちびちびと晩酌する程度だ。

「たぶん空いてると思うけど…。なんで?」
「空けておいて。久しぶりにちゃんとしたレストランで、麗華とデートしたいなと思って」

― 改めて、どうしたんだろう?もしかしてこれは…!!

大輔が淹れてくれたコーヒーに、ミルクを入れ過ぎただろうか。いつもより少し、コーヒーの味がまろやかに感じた。



あっという間に週末は終わり、すぐに忙しい月曜がやってきた。

弁護士として働く私は昨年昇進し、来年は独立して個人事務所を開業予定だ。そのため目が回るくらい忙しい。

一方の大輔もコンサル会社勤務で、平日は疲れきっている。私が寝てから帰ってくることも多々あった。

「一緒に住まない?お互い忙しいけど、一緒に住んだらいつでも会えるから」

そう言ってくれたのは大輔だった。

― 私、遂に結婚するのかな。絶対にプロポーズだよね?

そんな嬉しさに浸りたかったけれど、今週は特に忙しくて、ゆっくり考える余裕もない。

それでも、私は土曜のディナーが楽しみで仕方なかった。


最高の舞台で見えた、意外な答え


待ちに待った土曜の夜。「もしかしたら今日は大事な写真を撮ることになるかもしれない」と思い、いつもより念入りに化粧をしてピンヒールも履いた。

大輔が予約をしてくれていたのは、ウェスティンホテル東京の『鉄板焼 恵比寿』だった。



「相変わらず綺麗な景色だね」

ちょうど日が落ちかけている時間だった。茜色に染まる空と、明かりが灯り始めたビル群。22階から見える東京の独特な景色に、思わず吸い寄せられられる。

「麗香、この店覚えてる?」
「もちろんだよ。忘れるわけないもん」

忘れるわけない。だって、大輔との初デートのお店だから。

「あの時、柄にもなく緊張してたことバレてた?最初から今日『付き合ってください』と言おうと思ってたから」
「ビックリしたよ。初デートで告白されたから」

もう5年も前のことになるけれど、席に座った時から全然目を合わせてくれなかった大輔。

後になって緊張していたからだと知るけれど、一見器用そうに見えるのに実は不器用で優しい大輔が、私は大好きだった。

― ジュウ…

目の前の大きな鉄板で、シェフがダイナミックにお肉を焼いている。

オリジナルの最高級和牛「恵比寿牛」は、上質な脂が溶けて口の中で甘く優しく広がった。脂はしつこ過ぎず、赤身の弾力とのバランスが絶妙な逸品だった。



「相変わらず、美味しいね」

口の中いっぱいに広がる、ミディアムレアの「恵比寿牛」の旨味。赤ワインを一口飲むと、ピノ・ノワールの芳醇な香りが口に広がり、最高なマリアージュに昇華されていく。

「やっぱりいいものって変わらないね。いつ来ても本当に美味しいなぁ」

大輔の言葉に、私も大きくうなずく。

「麗香、このタイミングであれなんだけど…。待たせてごめん」

― キタ…。この瞬間が、遂にキタ。

でも続く大輔の言葉に、私は一瞬耳を疑った。

「麗香のこと、一生大事にしようと思ってる。ただ最近、お互い忙し過ぎてちゃんと向き合えてなかったなと思って、今日はとっておきの店で二人きりで過ごしたかったんだよね」

私は「結婚しよう」の一言をかなり期待していた。

夜景の見える思い出のレストランで、二人きりでのディナー。期待しないほうがおかしいだろう。

「ふふ…」

思わず声に出して笑ってしまった。

「え?どうしたの?」
「大ちゃんが言うように、いつまで経っても変わらないものってあるよね」

はっきりプロポーズをしてくれないことに対して、怒ってはいない。ただ待つことには疲れている。でも不思議と、今日は嫌な気持ちにはならなかった。

むしろ、なんて私たちらしいのだろうかと思った。

「私たちも、この先ずっと変わらないんだろうなと思って」
「当たり前じゃん。僕は麗香以外の人なんて絶対ありえないから」

私たちの関係性は、変わらない。

入籍はタイミングだし、“その時”が来たら自然とするだろうと思えてきた。

私と大輔は、この先もずっと一緒にいる。それがもしかしたら“夫婦”という形なのかはわからないけれど、この関係でも十分幸せだ。

何より、私はこの不器用でまっすぐな大輔という人が大好きだった。

「ねぇ大ちゃん。実は今日、プロポーズされるのかなと思っていたんだけど(笑)」
「それはあと半年以内にします(笑)。指輪もちゃんと買いたいし…。だって麗華は、勝手に買ったら怒るでしょ?『自分が欲しいのはこのダイヤの大きさでこのブランドで…』って」

そんなこと考えていたのか、という言葉に思わず拍子抜けしてしまった。

「さすが、よくわかってるね〜!」

ガーリックライスの良い香りが、私たちの間に漂う。

愛し、愛されてお互いに信頼できるこの関係。最高に優しくて一緒にいると楽しい、大好きな人。

「大ちゃん、いつもありがとう。これからもよろしくね」
「こちらこそ。末長くよろしくお願いいたします」

東京の輝く夜景をバックに、私たちは目を合わせて笑い合った。

帰ったら、もっと優しくしてあげよう。最近怒ってばかりだった自分も反省しよう。

何気ない日常のワンシーンなのかもしれない。でも今日という夜は、私たち二人にとって、また大事な思い出の1ページになった気がした。


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