人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。



思い出の上描き【前編】


「元カレのことは、俺が忘れさせるから…」

雅紀は、「今こそ告げるべきタイミングだ」と見極め、予め用意していたフレーズを強い口調で伝えた。

しかし、テーブルを挟んで向かいの席に座る玲奈は、俯いたまま黙っている。

― ああ、今回もダメなのか…。



雅紀が玲奈に交際を申し込むのは、今日が初めてではなかった。

玲奈と出会ったのは3ヶ月ほど前。

大手食品会社に勤める雅紀が新商品の開発に携わった際、プロモーションを依頼した会社で広報を担当していたのが、玲奈だった。

打ち合わせで最初に顔を合わせたとき、印象に残ったのはその“妖艶さ”だ。

雅紀と同じ29歳だが、どこか影をまとったような佇まいに、年齢以上の大人っぽさを感じる。

いつの間にか心の隙間に、玲奈が入り込んだ。

彼女を常に意識するようになった雅紀は、ついに自分から食事に誘った。

そして、最初の告白。

そのときに雅紀は、玲奈から漂う怪しげな魅力の要因を垣間見る。


「元カレのことが忘れられなくて…」

雅紀の告白に対し、玲奈は深い悲しみを滲ませるように返事をした。

ひとりの男を、別れてもなお一途に思い続ける執念のような感情が、玲奈に妖艶な色香を纏わせているのだと悟ったのだ。

2度目の告白も同様の理由で断られ、今日は3度目の場を迎えていた。

場所は六本木ヒルズにある『THE SUN & THE MOON(ザ サン & ザ ムーン)』。



“3度目の正直”となることを祈り、これが最後のチャンスとばかりに渾身のひと言をぶつけたが、玲奈は、俯いたままだ。

― 今回もダメなのか…。

そう思った途端、玲奈が顔を上げ、雅紀を見つめる。

彼女の口もとは、微かに笑みを湛えているようにも見えた。

「ありがとう」

玲奈が言った。その返答に雅紀は戸惑う。

「え…。それは、どういう…意味?」

玲奈はひとつ頷いて、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「ええっ!付き合ってくれるってこと!?いいの?でも、何で急に…」

「嬉しかった。『忘れさせる』って言ってくれて。私も、前に進まないとね」

雅紀の胸に、玲奈のためならすべてを投げ打ってもいいと思えるほどの喜びが込み上げる。

「うん。俺、忘れさせるから。絶対に」

雅紀は自分に言い聞かせるように呟いた。



玲奈との交際が始まり1ヶ月が経った。

付き合っていることに対して、雅紀はしばらくのあいだ違和感を拭えずにいた。

でもそれも徐々に薄れ、玲奈が自分の彼女だと実感を持てるようになっている。

今日は2人で上野動物園に出かけ、帰りに御茶ノ水にある玲奈のマンションを訪れていた。

「シャオシャオもレイレイも可愛かったなぁ〜」

パンダの戯れる姿を思い出したのか、玲奈が顔をほころばせる。



大人っぽい雰囲気に似つかわしくない無邪気な発言に、雅紀はどうしようもなく男心をくすぐられる。

「そうだね。また会いに行こう!」

デートに出かける際、行き先はいつも玲奈が提案してくれる。おかげでプランに悩むことがなく、雅紀はありがたく思っていた。

これまで、動物園のほかに、水族館や遊園地などを巡った。

デートの行き先として定番の場所が多く、新鮮味がないのではないかと不安に感じたが、玲奈はどこに出かけても楽しそうな笑顔を見せた。

「今度さ、2人で旅行に行かない?」

雅紀がたまには自分からも提案してみようとプランを伝える。

「お互い仕事あるし、1泊2日ぐらいで。そんな遠いところには行けないけど」

「それなら箱根がいい!」

玲奈がすぐに希望の行き先をあげた。

「箱根か、いいね。温泉ね!」

「うん!美術館とかもいっぱいあるし。ちょっと調べてみよう」

早速、玲奈がノートパソコンを開いて検索を始める。宿泊先や周辺のスポットなどをリサーチする様子を、雅紀は傍らで眺めた。

そこで、玲奈のスマートフォンが鳴った。

「あ、お母さんからだ」

玲奈は電話に出ると、雅紀に目でサインを送り、隣の部屋に移った。

雅紀はノートパソコンを自分のほうに向け、リサーチを引き継ぐ。

すると、途中で操作を誤り、プラウザを閉じてしまった。

デスクトップ画面の背景画像に、いくつかのフォルダが表示されている。

そこにひとつ、『思い出』というタイトルのフォルダを見つけた。

― 思い出…か。なんだろう。ちょっと気になるな。

雅紀はどこか気が引けたが、玲奈の電話がまだ終わりそうもなかったため、カーソルを合わせクリックしてみた。


フォルダが開かれ、たくさんの写真が表示される。

いろんな景色や、なかには男と撮っているような写真もあったが、ひとまず注視せずにスクロールしてざっと眺めた。

だが、写真を見ているうちに雅紀はあることに気づき、手を止める。

― ええ…。どういうことだよ…。

写真に写った景色には、見覚えのあるものが多かった。

自分たちがこれまでデートで出かけた先と、同じような景色の写真ばかりが並んでいたのだった。

動物園や水族館、遊園地。

フォルダ内の写真は、これまでのデートの行き先ばかり。

それどころか、これから行こうと話していた美術館などで撮ったものもある。

雅紀は、おそらくすべて、玲奈が元カレと出かけた場所であろうと察した。

― なんで、そんなところに俺と…。

思い出の場所に行けば、自然と元カレの存在を思い出してしまうではないかと、玲奈の行動に不信感を抱く。

そのとき、雅紀の頭にマイナスの思考がよぎった。

― むしろ、思い出そうとしてるってことか…?



元カレを忘れさせようとしている自分に対し、玲奈は思い出の場所を辿り、記憶を鮮明に蘇らせているのではないかと思った。

それほどまでに元カレを愛おしく思い、未だにその存在を色濃く残しているのかと、玲奈の胸中を察し、雅紀は打ちひしがれた。

「ごめんごめん!お母さんの話が長くって…」

玲奈が母親との電話を終え、部屋に戻ってきた。

「え…。雅紀、どうしたの?」

肩を落とし、悲壮感を漂わせている雅紀に声をかける。

「玲奈。なんだよ、これ…」

雅紀が写真の映ったパソコンの画面を向けると、すぐに状況を察したのか玲奈が動揺を見せる。

「そ、それは…」

「元カレとの写真だろう?俺と出かけた場所で撮ったものばっかりじゃないか。そうやって同じ場所を巡って、こいつのことを思い出してたんだろう…」

雅紀が声を震わせて訴える。

「ち、違うの…」

「何が違うんだよ」

「確かに、同じ場所に行ってたけど、それは彼のことを忘れるためなの」

「忘れる…ため…?」

玲奈の言葉の意味が理解できず、雅紀は顔をしかめる。

「信じてもらえるかどうかわからないけど…。彼と行った場所に雅紀と出かけることで、彼との思い出を消そうとしたの」

「思い出を上書きしようとした…ってこと?」

玲奈は頷くが、雅紀としては即座に受け入れることはできなかった。

だが、雅紀の頭に、かつて耳にしたある言葉が思い浮かぶ。

『女性は思い出を上書きして保存する』

そんな話を聞いたことがあった。

男が元カノのことをフォルダにして記憶に残し、いつでも取り出せるように保存しておくのに対して、女性は元カレとの思い出を上書きしてリセットするのだと…。

もし、その言葉が事実だとするなら、玲奈は元カレを忘れるための作業をしていることになる。

現恋人である雅紀としては、その努力を阻むわけにはいかない。



「本当に、元カレのことを忘れようとしてるの…?」

玲奈が深く頷いた。

「…わかった。信じるよ」

たとえ玲奈の真意が別にあったとしても、別れるという選択はできない。玲奈を手放すことなどできない雅紀は、信じるしかなかった。

「これから、そいつと出かけた場所を全部巡ろう。そして、思い出を全部上書きしよう」

雅紀は、玲奈の目をじっと見つめる。

「俺が、絶対にそいつのことを忘れさせてやる」

何度も告げたこの言葉に、いっそう強い思いを込め、雅紀は宣言した。


▶他にも:彼氏と一緒に友人の結婚式に参加したら…。些細なことから喧嘩になり…

▶NEXT:7月27日 木曜更新予定
「元カレを忘れさせる」と決めた雅紀。しかし、玲奈が誕生日プレゼントに求めたものに驚愕し…