愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

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Vol.2 『一歩が踏み出せない』汐音(25歳)


金曜の22時。二重橋前駅近くの青信号が、点滅を始める。

汐音の少し前を歩いていた男性が足早になる。

後ろを歩いていた女性も汐音を追い越し、駆け足で横断歩道を渡っていく。

その二人だけじゃなく、何人もが先を急いだ。

だが、汐音は足を止め、信号が赤になるのを見届けた。

先月、汐音がフランスに出張した際、現地に住む日本人から「フランス人は信号を守らない。自己責任で赤信号を渡っていく」と聞いていた。

車は走っていない。日本人だとしても渡るチャンスだ。

しかし、汐音は渡らない。

なぜなら今、隣には葉山彰人がいるからだ。

大手商社に同期入社した彼とは、これまで何度となく酒を共にした。

今夜、二人の物理的距離は、過去最高に近い。

汐音は、彰人の手に触れたかった。

けれど、勇気が出ない。




子どものころから、受験も、部活も、恋愛も、そして就職活動も希望どおりに歩んできた汐音は、大手商社に入ったあと初めてつまずいた。

まったく希望していなかった「ワイン容器を輸入する部署」に配属されたのだ。

― 花形のワインのインポートならともかく、容器のほう?

それは人生で初めての挫折と呼べるものだった。

×××のワインは〇〇〇だから、グラスは□□□のような形が合っています――などと説明するために勉強しているが、そもそも酒といえばビール一択だった汐音は、どうしてもやる気が出ない。



「でもやるんだよ、仕事だから」

新人研修時代に“仲間”として馬が合った彰人は、配属以来2年以上ずっと汐音を励ましてくれた。

「それはわかってるんだよ?わかってるんだけどさあ…」

「それでも嫌なら異動願いとか出すとか。ウチの会社で汐音を欲しがる部署は多いと思うけど?」

「彰人は簡単に言うけどさ、異動願いを出しても絶対無視されるし、今の部署での居心地が悪くなるだけ」

「じゃ、もういっそのこと転職すれば?」

転職。それは汐音も考えた。

しかし、こうして彰人と会ったり飲んだりする機会が減るかと思うと、なかなか勇気が出ない。

実はこの“一歩を踏み出す勇気がない”という性格は、長所でもあり短所でもある、と汐音は自覚している。

今まで挫折のない人生を送ってきたのは、一歩踏み出す勇気が出ずにチャレンジしてこなかったから。

受験も就職活動も、成功しやすい選択を繰り返してきたから、今の汐音がいる。

恋愛だってそうだ。

これまでは大抵、男性たちが一歩踏み出してくれた。おかげで自分も踏み出すことができた。

だからこそ、失敗しなかっただけ。挫折しなかっただけ。

相手がアプローチしてくれないと自分は何もしない。

彰人との関係もまさにそうだ。



汐音は、彰人が好きだ。

この2年ずっと答えの出ない愚痴に付き合ってくれる彰人に、好意を抱いていた。

そうでなければ、月に何度も二人きりで酒を共にはしない。

でも、関係を発展させる勇気がない。

互いを下の名前で呼び捨てにする友達のような関係を築いているが、あくまで職場の新卒同期の仲間で同僚だ。

いつの時代も、その関係から恋人に発展するのは難しい。

かといって、彰人からアプローチしてくる気配はない。

― 彰人は、私のことを異性としては、見ていない。

彼と二人きりで飲むたびに、汐音はこの結論に辿り着く。

でも、彼と別れて帰宅し、シャワーを浴びて就寝し、翌朝起きるとそんな結論を出したことをすっかり忘れてしまう。

だから、次に二人きりで会うときには、また期待してしまう。

― やっぱり彰人だって私のこと好きなはず。じゃなきゃ、こんなに月に何度も飲んだりしないよね?

彰人からアプローチしてくるのを待ってしまう。

そして、今夜も、いつものビストロにやってきた。

ここには、汐音の幼馴染みがやっている店だ。


今夜も、汐音が愚痴を吐き、彰人が慰める――といういつもの展開が繰り広げられた。

「ねぇ、汐音。ドメーヌ・アラン・ジョフロワを頼まない?」

不意に彰人が提案してきた。

「え?」

「ドメーヌ・アラン・ジョフロワ」

「いや、聞こえてる。どうしたの急に?」

彰人はワインに詳しくない。

いつもは「白」か「赤」、がんばっても「泡」という最低限の言葉でしかワインの種類を表現しない彰人が、銘柄を言うことに汐音は驚いた。

「彰人、ワインの勉強してるの?」

「してないよ」

汐音が尋ねても彰人は煙に巻く。何かしら調べたはずなのに。

「前から飲んでみたかったんだよね。ドメーヌ・アラン・ジョフロワ」

「そうなんだ。それ、たしかシャブリだよね?」

思わぬ質問をされたのか、彰人はきょとんとする。

「えっ?シャブリってなに?」

フランスのシャブリ地方で作られるワインのことをシャブリと総称している。

アラン・ジョフロワは、シャブリの作り手として知られている。ドメーヌ・アラン・ジョフロワを知っていながら、シャブリを知らないなんてことはありえない。

― 彰人、絶対に何か読んだか調べたんだよね。

汐音は内心で笑ってしまう。

馴染みの男性店主が、カウンター向こうのキッチンから声をかけてくる。

「ウチにあるのは、まだ若いからカラフェに開けたほうがいいと思うよ」

汐音が答える前に彰人が言う。

「カラフェに開けてください」

ワインの銘柄だけじゃない。カラフェという容器の存在を彰人が知っていることに驚いた。

汐音は、現在の部署に配属されて初めて知ったのに。

呆気に取られている汐音を見て、彰人は嬉しそうに鼻を鳴らして得意げに続けた。



「ドメーヌ・アラン・ジョフロワは、栓を開けてすぐは若くてイマイチなんだ。まだ寝てるって感じ?

でもカラフェに開けて空気に触れさせると目を覚まして、本来の美味しさを呼び起こすんだよね」

「そ、そっか…」

「でも、理想はカラフェに開けて、一晩寝かせるんだ。そうすると花が開く」

「う、うん…」

「今の汐音もそうじゃないかな?」

「…え?」

突然、話題が急カーブして汐音は驚く。

「汐音は今、カラフェに入って一晩寝かされてる状態なんだよ。でもきっともうすぐ花開く。今は我慢のときだよ」

彰人がとても大事なことを、なるべくさりげなく言おうとしていることに、汐音は気がついた。

「だから今、自分が置かれた場所で、もうちょっと頑張ってみない」

それは彰人なりの精一杯の励ましだった。

汐音は、思わず笑ってしまう。

「な、なんだよ…なにがおかしいんだよ…」

彰人は赤面している。

「ごめん。うん。ありがとう」

汐音は笑いながらも、ちょっと泣きそうになった。





22時。

いつもより少しだけ早くビストロを出て、汐音と彰人は横並びで東京駅まで歩いていく。

途中、二重橋前駅近くの赤信号で二人は止まった。

汐音は、さっきのカラフェの例え話を思い出す。

― あれって、まるで私たちのことみたいだ。

自分たちは新卒3年目でワインの知識もないただの子どもだった。

まるで栓を開けたばかりの若いワインで、カラフェに開けられて一晩寝かされているのだ。

きっと夜が明ければ花が開く。子どもから大人になる。

汐音はずっと、失敗を恐れず何度もチャレンジするのは、子どものやることだと思っていた。

― でも、本当の大人こそ一歩踏み出す勇気を持っているのかな。特に恋愛においては…。

2年以上、愚直に励まし続けてくれた彰人と近づくために、汐音は、信号待ちの間に、隣にいる彼の左手を握った。

彰人は少しだけビクッとして驚いたが、何も言わず、こちらに目もくれず、ギュッと汐音の右手を握り返した。

その反応は、まるで子どものようだ、と汐音は思った。


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