オトナの男女なら、一度や二度はあるだろう。

友達や恋人には言えない“あの夜”が…。

寂しかったから、お酒に酔っていたから、魔が差して…。

そうやって自分に言い訳をしながら、人は一夜の過ちを犯す。

これは、オトナの男女の「誰にも言えないあの夜」のストーリー。

▶前回:「こんなに可愛かったっけ…?」元カノが魅力的に見えて、男の気持ちが再燃した夜



Vol.3 『昇格のために』彩花(30)


「あ、留奈。おはよう」

ある月曜日の朝。

私は、同僚の杉本留奈に声をかけた。

私たちは、4年前にこのコンサルティングファームに中途入社した同期だ。

年齢も30歳と同じだからか、社内ではふたりまとめて“アヤルナ”と呼ばれている。

「おはよ〜彩花も朝からミーティング?」
「うん。今、終わったとこ」

この会社のリモート率は80%で、私も留奈もリモートワークが基本。だから、留奈と会うのも久しぶりだ。

なんだか嬉しいと思ったのも束の間、留奈の顔から笑顔が溢れた。

「そっか。私はこれから会議なの。今回は結構ビッグプロジェクトらしくて…。あ、ごめん!時間だから、もう行くね」

― ビッグプロジェクト?なにそれ、聞いてない…。

私は、留奈の背中を見つめながら、焦りを隠しきれなかった。


「お疲れさまです。あの、杉本さんがアサインされているビッグプロジェクトって、クライアントどこですか…?」

私は、居ても立ってもいられず、たまたま出社していた上司の向井に声をかけた。向井は、今回留奈をプロジェクトリーダーに抜擢した1人だ。

「あ〜、これこれ。今後、新しい事業を展開しようとしているみたいで。その新市場進出戦略ってとこかな」

向井は、手に持っていた資料を私に見せてきた。



― うそ…すごい…!

私は驚いた。

なぜなら、クライアントがかなりの大企業だったからだ。そのクラスは、私はこれまで担当したことがない。

「つまり、留奈…杉本さんがプロジェクトリーダーを?どうしてですか?」

こんなことを上司に聞くなんて、間違っているとわかっている。でも、口が勝手に動いていた。

「うん。そのポテンシャルが杉本にあると思っているから、今回リーダーを任せてみようと思ってるよ」

向井は隠すことなく、事実を教えてくれた。

― 留奈が今回の案件を無事に完走できたら、きっと昇進するよね。

私たちの評価は、横並びだと思っていた。

それなのに、留奈に先を越されるのは、悔しい。

「君にも期待してるからな、頑張れよ。じゃ、僕はこれから会議だから」
「はい…」

そう言うと、向井は、席を立って出て行ってしまった。

― 頑張れって…。もうすでに、頑張ってるんですけど…。

私は、肩を落とした。

留奈は外資系の銀行勤務の彼氏と同棲していて、そろそろ結婚すると言っていた。

だから彼女は、昇進には興味がないと思い込んでいた自分の頬を叩きたい。



「彩花、私たちのどっちが先に昇進しても、これまで通りの仲でいようね」
「うん。裏切りはナシね!」

いつか、留奈と飲んだ時にそんな話をした。

留奈にいつも余裕が感じられていたのは、彼女の社内評判が私より上だったからだろうか。

これまでも、面白そうなプロジェクトには、私じゃなく留奈がアサインされることが多かった。

それに、向井も彼女のことを気に入っていることが日頃の会話からもわかる。

ということは、正攻法では負けてしまう。

私は一か八か、ある作戦を仕掛けることにした。




「はい、カンパイ〜」
「おつかれさまです」

私は麻布十番にある焼鳥屋さんで、ビールが入ったグラスを合わせた。

隣にいるのは、向井の上司にあたる竹野内。



「やっぱり竹野内さんって、センス抜群ですよね〜!こんなにオシャレなお店を知ってるなんて!」

私はとりあえず、彼を褒めまくることにした。

「え?そう?」

竹野内は、デレデレしながら笑った。

留奈をプロジェクトリーダーに選んだ上司の向井は、アメリカの大学でMBAも取得しているエリート。しかもお酒が強いし、既婚者だ。

そんな人と盃を交わしても、私の作戦は通用しないだろう。

だから、向井の上司である竹野内を誘うことにしたのだ。彼は、41歳のバツイチでお酒が弱く、女好きだ。その証拠に、食事に誘ったら二つ返事でやってきた。

私は、さっそく今朝の話をした。

「へ〜。杉本留奈がプロジェクトリーダーか。まぁ…スキルは申し分ないし、人柄もいいからな」

「ですよね。留奈の評価がいいのもわかってます…今後、比べられるのが辛いです」

私がうつむきながら言うと、竹野内は小さく頷いた。

「まぁ、飲もう。今日は遅くまで付き合うよ」
「はい」





「……あれ?ここ、どこだ」

深夜1時。ようやく竹野内が目を覚ました。私たちは焼き鳥のあと、2軒ハシゴしてタクシーで一緒に西新宿にある彼のタワマンに来た。

「もう〜、竹野内さん飲みすぎですよ。はいお水」
「あ、あぁ。悪ぃ」

「…俺、全然覚えてないけど、そういうことだよな。ごめん」

私たちの間には何もなかったが、ベッドで目を覚ました竹野内は、そうは思っていないようだ。

― それなら、好都合だわ。

「さっき、彼女さん?から電話がありましたよ。ここにもうすぐ来るって」

私が言うと、竹野内は慌てた。

「えっ!?それはまずいって!頼む。彼女と婚約してるんだよ。婚約破棄だけは避けたい!とりあえず、帰ってくれないか?」

「……いいですけど、私のお願い聞いてくれます?」



竹野内がどうやって向井を説得したのかは、わからない。

けれど、プロジェクトリーダーから留奈が外れ、私が選ばれた。

あの夜、ハイペースでお酒を飲んでいた竹野内は、帰る頃には完全に潰れていた。

体を支えながら家まで送り、ベッドに寝かせた直後、竹野内のスマホが鳴ったのだ。

画面の表示が『ゆい♡』だったので彼女だとわかり、私は迷わず通話ボタンをタップ。

「私、竹野内さんの部下です。すごく酔っていて…今、お家まで送ってきたところです」

それだけ言って、電話を切った。

そして、竹野内に「私をプロジェクトリーダーにしてくれるなら、帰ります」と言い残して帰ったのだ。

本当にリーダーになれるかどうかなんて、わからなかった。

だから、向井に呼ばれた時は、達成感に似た感情が湧き上がり、自分の中の悪女が微笑んだ気がした。



「彩花…おめでとう」
「ありがとう」

ライバルの留奈の悔しそうな顔は、忘れられない。

それに、このときは罪悪感もなかった。竹野内とは何もなかったから。

しかし、それからしばらくして、私は社内で浮くようになった。

プロジェクトリーダーになったものの、重要な案件は担当できず、誰でもできるような仕事しかさせてもらえない。

― どうしてなの…?あの事は、バレていないはずなのに。



1年後。

相変わらず、悶々とした日々を過ごしていたある日。

留奈が転職することを、後輩から聞いた。

あの件以来、私はすっかり留奈と距離ができてしまったから、直接は聞かされなかったのだ。

「これ、杉本さんからです」

後輩から渡されたのは、留奈からの手紙だった。

『彩花へ。彩花がどうしてプロジェクトリーダーになったのか、知っています。でも、安心して。知っているのはほんの数人だから』

― そうだったの…!?

私は、メモを握りしめてギュッと目をつぶった。

「留奈、ごめん」

悪いことをしたと思っているが、あのときは、どうしようもなかったのだ。

留奈と正々堂々と戦っていたら、絶対留奈に負けていただろうから。

恋愛もうまくいっていなかったし、仕事で頑張るしかなかった。プロジェクトリーダーになれば、未来に希望が持てる気がしたのだ。

だけど、それと引き換えに、同期であり親友でありライバルだった人を私は失った。

我慢していた涙がこぼれる。

― ダメ。ここで弱気になったら、あのときの努力が無駄になる。

あの夜、本当は何があったのか。知っているのは、私だけだ。

ならば、このまま誰にも言わずに、風化するのを待つしかない。

失ったものと引き換えに得た、ポジションや年俸を、手放すことだけは、絶対にできないのだから。

私は、手紙を丸めてパンツのポケットに押し込むと、深呼吸をして、会議室に向かった。


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