愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

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Vol.14『密会』楢崎淳之介(41歳)


41歳の楢崎淳之介は今夜、妻には内緒で、他の女性と2人きりで会う。

相手は、慶應義塾大学文学部の同級生で、当時2年ほど付き合っていた元恋人の久原優美だ。

「え!?私たち、2人きりで会うのは20年ぶりなの?」

荒木町の『どろまみれ』の対面席で優美は笑った。

「そうそう。他の同級生を含めて何度も会ってきたから、そんな感じがしないけど、実はそうなんだよ」

「…じゃ、私たちが最後に2人きりで会ったのは?」

「就職活動の真っ最中に別れ話をしたのが最後だったよな」

「あはは。そうだったね。就活のときに別れたんだ、私たち」

優美の笑顔を見つめながら、淳之介も笑う。

― なんか、懐かしいな。

まだ20歳前後だったあのころ、いつもこの大きくて愛くるしい笑顔に吸い込まれてきた。

― 別れてから20年か…。

容姿がまったく変わらないと言えばウソになる。それでも優美は変わらず美しい。年齢と上手に付き合っている。

一杯目に頼んだスパークリングワインを口にしてから、優美は言う。

「私たち、大喧嘩して別れたってわけじゃないよね?」


「うん。友達に戻ろうって言って別れたはず。うろ覚えだけど」

どうやら自分ばかりが、当時のことを覚えているらしい。

未練がましい男だと思われたら嫌だなと思って「うろ覚えだけど」と淳之介は付け加えた。

「社交辞令だね〜」

「若い男女が別れるときのあるあるだ」

「社交辞令でもいいんだよ。実際、友達に戻れたし」

「でも、私の結婚式には来てくれなかったよ?」

「それは…」

15年前に行われた優美の結婚式に、大学の同級生として淳之介も招待されたが、色々と理由をつけて参加しなかった。

あのとき本音は言えなかったが、今なら言える。

「優美の1年前に俺が結婚しただろ?そのとき式に優美を呼ばなかったから、そっちのには行っちゃいけない気がしたんだよ」

「そっか〜。まあ一応、私たち元カレ元カノだもんね。お互いの結婚式は行くもんじゃないよね」

飲み始めてからずっと、淳之介は劣勢な気がした。そこで、少しばかり意地悪な質問をして反撃を試みた。

「今夜は、旦那さんに何て言ってきたの?」

優美は、即答する。

「仕事の会食で帰りが遅くなるって、ウソをついてきた」



それは、淳之介も同じだった。

6年前に購入した目黒不動尊近くの低層マンションには、愛する妻と子どもが待っている。

妻によると、4歳の息子は、仕事帰りの淳之介に「おかえり」が言いたくて遅くまで起きていようとするが、20時半を越えると限界が来て寝てしまうらしい。

だから何もない夜は、なるべく早く帰宅することを心掛けている。

でも、今夜は妻にも息子にも、あらかじめ「仕事ですごく遅くなる」と伝えていた。

― 今、俺たちは互いの家族にウソついて、秘密の逢瀬をしているのか…。

淳之介は、元恋人と2人きりになっている状況をあらためて意識しながら、グラスに残ったスパークリングを一気に飲み干した。

「ごほっ」

同時にむせる。

「ちょっとぉ、大丈夫?」

さっきから、優美はずっと楽しそうに笑っている。

「う、うん…大丈夫」



優美と2人きりで会うことに浮ついた気持ちはない、と言えばウソになる。

だからこそ、淳之介は妻にも子どもにも内緒にしたのだ。

― でも不倫をしたいわけじゃない…。

これが10年前なら、正直わからなかった。

当時はまだ子どもがいなかったし、妻とはいわゆる倦怠期だった。

なにより10年前は31歳だ。

31歳の男というのは誰もが自分は大人になったと誤解して、子どもじみた行動に拍車がかかるもの。

けれど今は41歳だ。

本当の意味で大人になった…はず。

目の前にいる優美は、内心で慌てている淳之介の気持ちを知ってか知らずか、微笑みを絶やさずにいる。

それがどうにも艶っぽい。

20年前の優美が見せてはくれなかった表情で、心が惑わされる。

妙な雰囲気にならないよう淳之介は話題を変えた。

「優美ってさ…趣味は?」

― 趣味は!?何を言ってるんだ、俺は…。

咄嗟に出てきた自分の質問に、淳之介自身が驚いた。

それは優美も同じらしく、やはり大きく笑った。

「元カノにそんなこと聞く?お見合いじゃないんだから」

おかしな質問であることは重々承知だが、今さら後に引けない。

「いいじゃんいいじゃん。最近の趣味、教えてよ」

「そうだなー」

優美は笑いが収まってから答えてくれる。

「今はワインかな」

「ああっ!そっか、だから…」

淳之介は少しばかり謎が解けた思いとなった。


淳之介と優美が20年ぶりに2人きりで会うことになったのは、もちろん理由がある。

新卒入社以来、淳之介は大手不動産会社に勤めているのだが、その会社が先日、自前の商業ビル内部に劇場をオープンさせた。

主に演劇作品を公演するシアターホールだ。

その劇場支配人に抜擢されたのは、大小問わず年間40〜50本は演劇を見ている淳之介だった。

営業部からの異動で、まさに青天の霹靂にして大出世。

劇場のこけら落とし公演に、大学時代の同級生たちを招待したが、駆け付けてくれたのは優美だけ。

そして、手土産に『シャトー・パルメ・アルテ・レゴ』を持参してきたのだ。

『シャトー・パルメ・アルテ・レゴ』は、マルゴーワインにおいてシャトー・マルゴーに次ぐ人気と実力を持つと言われるシャトー・パルメのセカンドラベル。

ファーストラベルの『シャトー・パルメ』ほどではないが『アルテ・レゴ』も十分に高級で、手土産のレベルを超えている。

淳之介がお礼返しに食事に誘うと、優美は二つ返事で応じてくれた。それが今夜のディナーである。

「優美がくれたあのワイン、高かったでしょ?」

「わかるんだ?」

「うん、まあ一応、俺もワインが好きだからさ」

「淳之介ってホント多趣味だよね。でも、私はずっと無趣味で…なんか趣味が欲しいなあって思ってたの。

そしたら外食するのが好きだってことに気づいて、それならワインを勉強してみようかな〜って思ったのが始まり。

今は、堂々とワインが趣味って言えるようになった」

本当に嬉しそうに優美が語るものだから、なんだか淳之介も嬉しい気持ちになってしまう。

「でも、夫は違うんだよねえ」

優美の表情が曇る。



「違うって、どういう意味?」

「夫は、私以上に無趣味なの。他の人から『趣味は?』って聞かれても特にないから『趣味は妻です』って答えてるんだって」

「……」

淳之介は呆気にとられた、というより感動している自分に気づいた。

見直してみれば、優美の表情は曇っているわけでなく、恥ずかしそうにふくれているようにも見える。

「なにそれ…すごい素敵だね」

「そう?」

「すごいよ!本当に素敵だよ!」

淳之介は、興奮気味に伝える。

「こんなこと言うのは正しいかどうかわからないけど、今の言葉を聞いただけで『優美は良い男性と結婚したんだな〜』って思えて、元カレとしては誇らしいよ」

「あはは。元カレとして誇らしい!?」

「うん」

「偉そう〜」

あっけらかんと優美が言うものだから、淳之介も大きく笑った。



優美と楽しく飲んで爽やかに解散したあと、少しだけやましい気持ちを抱えた淳之介は帰宅した。

すでに23時を越えている。

静かにドアを開けて玄関に入り、明かりはつけず、玄関からすぐ近くの寝室を確認すると、妻も息子もぐっすり眠っていた。

だが廊下の先、リビングは薄明りがついている。

行ってみるとテーブルにはおにぎりが2つあった。

仕事で遅くなると伝えていたため、妻は夜食を用意して寝床についたのだろう。

この状況において「食べない」という選択肢はない。

お腹はいっぱいであるが、淳之介は幸せな気持ちで2つのおにぎりを頬張る。

その夜、淳之介は本当の意味で大人になった気がした。

【今宵のワイン】
シャトー・パルメ・アルテ・レゴ

マルゴーワインにおいてシャトー・マルゴーに次ぐ人気と実力を持つと言われるシャトー・パルメのセカンドラベル。

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