愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

▶前回:「仕事で遅くなる」と嘘をついて、妻に内緒で元カノと密会した男。家に帰ったら…



Vol.15『別れる理由』いずみ(30歳)


「いずみ、表参道の交差点。あそこまで一緒に歩いたら、さよならしよう」

直樹が穏やかに言った。

「うん、本当にさよならなんだね」

いずみは直樹から腕を離し、空を見上げた。明るい街の光に邪魔され、星ひとつ見えない。

21時。

2人は西麻布で最後の食事をした後、ゆっくり表参道まで歩いてきた。いつもならどちらかの自宅に一緒に帰るけど、この日は違う。

みゆき通りまで来た時、いずみが立ち止まる。

「直樹、いつ出発するの?」

食事の時は、あえて話題にするのを避けていた。

「再来週。まだ少し時間はあるけど、引っ越しの準備とか引き継ぎで忙しくなるよ」

振り向いた直樹の瞳からは、いずみに何も言わせたくない決意のようなものが感じ取れた。

「そっか、大変だね…」

他にも言いたいことはあったが、いずみはあえて言葉を飲み込んだ。

直樹は転勤でスペインに行ってしまう。

27歳の時に友人の紹介で知り合い、付き合って3年。2歳年上の直樹は、商社に勤務しており、「そのうち海外転勤になるはず」と言っていた。

だが、それが現実になった時、2人の関係がどうなるかなんて、いずみは考えたこともなかった。

表参道の交差点に着くと「ほら、行きなよ。帰り遅くなるよ」と直樹がいずみの背中を押す。

青信号が点滅している。

「もう一杯だけ…飲んでから帰りたい」

往生際が悪いと思われてもいい。いずみは白い息を吐き、ブスッとした様子で直樹を見上げた。

直樹が小さく笑う。

「いいよ。じゃぁ一杯だけワイン飲みに行こうか」


骨董通りから一本入った通りにあるビルの狭く薄暗い階段を上り、重い扉を押し開ける。

重厚な木のカウンターとキラキラと光るワイングラスが、いずみの目に飛び込んできた。

店のソムリエが「久しぶりですね」と直樹に笑顔を向ける。

「仕事帰りにたまに寄る店なんだ」



直樹は、いずみからコートを受け取り、カウンターの一角に促す。

― こういうスマートなところも好き。

すでに食事のときにアルコールを入れているせいなのか、未練がましいとはわかっていても次から次へと直樹への思いが湧き上がってくる。

― 別れたくない…。

それがいずみの本心だが、口に出せないまま今日になってしまった。思わずいずみの瞳に涙が溢れてくる。

「ど、どうした?」

直樹が慌てた様子で尋ねた。

矛盾しているのは自分でもわかっている。

そもそも別れを切り出したのは、いずみだ。

今日の食事だって「仕事が忙しくて見送りできそうもないから」といずみから誘ったのだ。



それは年明けすぐのことだった。

「いずみ、実は転勤になったんだ。場所はちょっと遠いんだけど…バルセロナ」

年始早々の辞令で、異動は4月からだという。

「えっ?うそ!」

突然すぎていずみは言葉を失った。

「じゃあ、私たちはどうなるの?」

いずみは、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

直樹の残念そうにも気まずそうにも見える表情を見ていたら聞けなくなったのだ。

しかし、いずみは知っている。商社に就職したからには、いつかは海外で仕事をしてみたいと直樹が思っていたことを。

「まだ少し先だよ」と直樹は付け足す。

「少し先といっても、いずれ離れ離れになるんでしょ?気軽に会いに行ける場所でもないし…」

「でも、ほら。毎日顔見ながら電話とか、ね!」

「それはそうなんだけど…」

こんなに好きになった人はいない。今すぐじゃなくても、結婚するなら直樹以外は考えられないといずみは思っている。

でも、2人の間で「結婚」の話が出たことは一度もない。

これまでも何度か、結婚願望があるのかないのかだけでも聞こうかと思ったことはある。

でも、結婚の2文字をチラつかせて、面倒な女性と思われたくなくて、聞き出せないままでいた。

「お正月とかは、戻ってくるんでしょ?」

こんなとき、気の利いた可愛い言葉が思い浮かばない自分が残念だ。

「お正月って、なんか母親みたいだな」

直樹は笑う。

「いずみは、憧れの美容業界に転職したばかりなんだから…」

直樹はいずみの頭にポンと手のひらを乗せた。

「俺がいなくても頑張れ」



その日以降「俺がいなくても頑張れ」という言葉の意味を、いずみはモヤモヤと考えていた。

― “俺がいなくても”って、もしかしてこのまま自然消滅してもいいって思ってるのかな…。

未来の約束がないまま離れ離れになる不安は、どんどん増幅していった。

― なんで結婚しよう、って言ってくれないんだろう?

あれこれ考えすぎて、いずみは1ヶ月も経つと諦めの境地に入っていた。

「直樹、ごめん。私、遠距離で続ける自信がない」

そう直樹に伝えた時、もしかしたら引き留めてくれるかなと、いずみはわずかな期待を抱いていた。

しかし、直樹は「だったら仕方ないね」と別れをすぐに受け入れたのだ。

寂しかったが、自分は直樹のなかで結婚するほどの女ではなかったということなのだろう、といずみ結論づけた。

― きっとスペイン転勤がなくても、いつか別れることになっていたはず…。

そして「美味しいものを食べて笑って別れよう」と今日一緒に最後の食事をすることになったのだ。




「こないだ飲ませてもらったスペインのワイン、あったら飲みたいです」

ワインバーに入り直樹がオーダーすると、ソムリエが古めかしい瓶を手にやってきた。

「その瓶…?」

いずみが驚く。

ボトルには、小さな貝殻が付着し、ラベルは汚れていてほとんど読めない。

「バスク海底熟成ワイン『Sea Soul No.7』です。

スペインのバスク地方に拠点を置くワイナリーが、人工魚礁を兼ねたワインケースを用いて海底でワインを熟成させてるんです。だからこんな面白いボトルなんですよ」

「へぇ、海底熟成ワインってなんだかロマンチック」

「味も美味しいんだよ。だからもう一度飲みたくて」

2人は乾杯する。

「かんぱーい。直樹気をつけて行ってきてね」



「美味しい…」

トロピカルフルーツのような完熟した果実を思わせる芳醇な味わいに、いずみはうっとりした。

いずみはグラスを置いて、直樹の顔を見る。

「でしょ? 白ワインは低温での熟成と管理が必要で、海底に沈める時期や引き上げるタイミングの調整が難しいんだって」

グルナッシュ・ブランという品種のぶどうを100%使用しているのだと、ソムリエが教えてくれた。

いずみはグラスワインを飲み干してしまった。これが最後の一杯だということすら忘れて。

すると、いずみの横顔を見つめながら、直樹が言った。

「おかわりする?」

「うん」

いずみは頷く。刻一刻と別れが近づいているのは自覚している。

「その瓶、パッケージとしてそういう演出をしているんだろうけど、海底熟成なんてロマンがあるよね。

なんか、映画『タイタニック』思い出しちゃった」

「なんでいきなりタイタニック?あぁ、海底熟成だからか」

直樹は笑う。

「そう。あの映画大好きなんだけど、ジャックが沈んじゃうシーンが辛すぎて1人で見れないの」

「そうだったんだ」

「もしかして直樹、別れなくちゃいけない2人っていう意味でこのワインにしたの?」

いずみは、絡んでいるわけじゃない。だが、酔っている自覚はあった。

「そんなことないよ。美味しいワインをいずみと一緒に飲みたかったからだよ」

直樹のスマートな答えが、いずみは不満だ。

そう、いつも直樹は冷静なのだ。感情に突き動かされて、その場限りの行動を取ったりしない。思慮深くて優しい。

私と正反対だと、常々いずみは思っている。だから、こんな時もやはり直樹は落ち着いている。

「スペインに一緒に来てって言ってほしかったのにな…」

最後だと思うと、いずみの本音が思わずこぼれ落ちる。


「一緒に来たいならそう言えばよかったのに。

でも、言いたいことを遠慮して飲み込んじゃうのが、いずみの可愛いところだよな」

思いがけない直樹の言葉に、いずみは顔を上げた。

「それって…ついていっていいってこと?」

「いいよ。いずみは、転職したばかりだし、辞めて一緒に行こう、なんて言えなかったんだよ」

「そうなの!?言いたいことを遠慮して飲みこんじゃうのは、直樹も同じじゃない?」

2人で顔を見合わせて笑う。

「でも、よく考えて。仕事を辞めるのはもったいないと思うし、この機に少し離れてみて、僕らの関係も熟成させるのもいいかもしれないよ?」

いずみの瞳に、またうるうると涙が溜まっていく。それを見て、やれやれと直樹がいずみの顔を覗き込んだ。

「とりあえず今は酔ってるし、今後どうするかは明日考えるとして、これ飲んだら今日は帰ろっか。どっちの家に帰る?」

「引っ越しちゃう前に直樹の家に帰りたい…。本当は私『別れたい』って言った時、引き留めてほしかったの。私直樹を試すようなことしてごめんね」

「いいよ、慣れてるから。でも俺だって今回はカッコつけすぎた。最初から一緒に来てほしいって言えばよかったな」

2人は笑いながら改めて乾杯をした。



バーを出て、コートのポケットに手を入れ狭く暗い階段を下りる直樹の後をいずみが追う。

そしてビルの外に出た途端、いずみは彼のポケットの中に自らの手を滑り込ませた。大きな手に握り返され、冷たくなった指先のひとつひとつがジワリと熱を取り戻していく。

いずみは、直樹の体温を確かめながら彼の肩に頬を寄せた。

【今宵のワイン】



『Sea Soul No.7』

スペインのバスク地方の海底熟成ワイン/グルナッシュ・ブラン100%
トロピカルフルーツを思わせる完熟した果実の芳醇な風味が溢れている。

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