東京の女性は、忙しい。

仕事、恋愛、家庭、子育て、友人関係…。

2023年を走り抜けたばかりなのに、また走り出す。

そんな「お疲れさま」な彼女たちにも、春が来る。

温かくポジティブな風に背中を押されて、彼女たちはようやく頬をゆるめるのだ――。

▶前回:「私って、イタい女!?」38歳独女。会社で出世しても、ワーカホリック認定され孤独なワケ



咲奈(30) 「一生独身」と決めてたけど…


「げ、結婚式の写真…」

通勤中の電車内でInstagramを見ていた咲奈は、体をビクッと震わせた。

1年前に別れた元夫の達也が、グレーのタキシード姿で、見知らぬ花嫁と寄り添っている。

咲奈は達也と、前職のIT系広告代理店で出会った。

だから共通の知人のストーリーズに、写真がアップされていたのだ。

― てか再婚…早くない?やっぱり、あの相手と続いているのか。

がっくりきて、スマホをカバンにそっとしまう。

達也とは、交際2年、結婚1年で別れた。

別れた原因は、達也の浮気。「大学時代の女友だちと関係を持っている」と、達也は自分から切り出したのだ。

青天の霹靂だった。

「いつの間にか、咲奈よりも彼女に対する優先順位が、上がっていて…」

ここ半年、毎週のように会っていたこと。

とにかく気が合って、一緒にいて楽しいこと。

もう咲奈への気持ちはないこと。

泣きそうな顔で「いくらでも払うから、もう別れてほしい」と懇願した達也。

信じていた人の大きな手には、札束がのぞいた茶封筒がにぎられていた。


電車を降りた咲奈は、晴れない気持ちを抱えたまま、勤務先である大手出版社のオフィスに入る。

朝9時。

デスクに着くと、上司の律子さんが、今日も一番乗りで出社している。

「おはようございます」

声をかけると、律子さんは急に立ち上がり「咲奈さん、ちょっといいかな?」と言った。

「突然で悪いんだけどね」。咲奈は、いつものように急な仕事を振られるのかと思った。しかし、違った。

「春休みとして3連休をあげる」

「え?どうしてですか?」

「…気づいたの。ただ忙しく働いているだけじゃ、人生がないがしろになるから、たまには休まないとって」

キリッとした笑顔に、咲奈はうろたえる。

「咲奈さんはチームでも一番頑張ってくれてるから、最優先でとって。私も休むのよ」

― 律子さん?急にどうしたんだろう…。

律子は、咲奈より8歳上。“プライベートを顧みないバリキャリ”として社内では知られている。

律子の前時代的な働き方を冷笑する人もいるが、咲奈は、小さな体でパワフルに立ち回る律子のことを、憧れのロールモデルだと思ってきた。

その律子が休むと言っているのだから、咲奈が驚くのも無理はない。

「土日をつなげて5連休にして、ゆっくり過ごしてね」

突然立ち現れた「プライベート」。

咲奈は辟易としてしまう。

離婚してから、恋人はいない。休日に遊びに行くような親友もいない。

― 何をしよう?

妙なプレッシャーを感じつつも「ありがとうございます」と言った。





「ううう…」

“春休み”初日、水曜の19時。

ホテルのベッドの上で、咲奈は休暇中に似つかわしくない苦悶の表情をうかべている。

家にいてもむなしいからと、桜木町にある『横浜ロイヤルパークホテル』に連泊してみることにしたのだ。

読みたい本をたくさん読もうと、8冊も持ち込んでいる。

でも、気分は晴れない。読書もめずらしくはかどらない。Instagramで見た達也の笑顔が頭から離れないのだ。

― 幸せそうだったな…。

未練はまったくないつもりの咲奈だが、やはり、満たされた顔を見ると悔しさでうんざりする。

「こんなウジウジするなら…仕事したいよ」

突然休みをくれた律子を、心のどこかで恨みたくなる。

仕事は感情をごまかす最高のツールだ。実際、離婚直後から、咲奈は仕事に没頭するようになった。

「そんなに働いてて、プライベートは大丈夫?」と同期からからかわれることも多かった。

でも、一生独身、おひとり様上等と言わんばかりに、1人で頼もしく生きる律子に、勇気をもらってきた。

― なのに、今さら。

律子の言葉を思い出す。

―「忙しく働いているだけじゃ、人生がないがしろになる」なんて。はしごを外された気分よ。

咲奈は居ても立ってもいられず、ホテルを出た。

3月初旬の風が、咲奈の頬をなでる。

ホテルが入っているランドマークタワーから、山下公園の方へ歩く。赤レンガ倉庫に差し掛かったときに、雨が降ってきた。

― 傘、ないなあ。

足早に移動する咲奈のパンプスのつま先に、雨が浸食する。

逃げるように、山下公園付近にある小さなバーに入った。





カラン、と音を立てて、氷がグラスの中で動く。

バーのマスターは、同い年くらいの男性だった。

一つ離れて隣の席に、キャメル色のジャケットを着てメガネをかけた、こちらも同い年くらいの男性がいる。

店内には、咲奈を入れて3人。

マスターと「尾崎さん」と呼ばれるその男性は、顔見知りのようだ。

2人は、咲奈も大好きな有名作家の新作小説について話している。

「ええ、僕も読みましたよ」

「どの作品が好きですか?」

マスターは、尾崎としばらく話し込んだあと、咲奈におかわりを聞きつつ、こうたずねた。

「お客様はこのあたりにお住まいなんですか?」

「いえ。自宅は東京です。今日は、桜木町に泊まっていて」

「ご旅行で?」

「急に会社から休みをもらって、暇になったんです。今日から4連泊横浜です」

横にいた尾崎が「羨ましいなあ」と真面目な顔でうなずいた。

マスターは「いやいや、尾崎さんはこのへんに住んでいるくせに」とつっこむ。

そのとき不意に、マスターの電話が鳴った。

裏に入り、1分後くらいに戻ってきたマスターは、ソワソワした様子で言った。


「尾崎さん、産まれそうです」

「なんと!行ってください」

咲奈は、事態が読めずに2人を交互に見る。

「あの…お客様、申し訳ありません。つ、妻が、出産を…。緊急で、今日はお店を閉めさせていただきたくて…」

時刻は20時30分。

もちろん引き留めるわけもなく、咲奈は席を立つ。

尾崎も立ち上がり、お札を数枚置いて「また来ますね」と言う。

マスターを置いて、2人慌ただしく店を出た。

雨は先ほどよりやや強くなっていた。

「びっくりした。マスターのお子さん、無事産まれるといいですね」

「うん。本当に、そうですね」

尾崎は願うように、夜景のほうを見つめる。

「あ、お代」

咲奈がお財布からお札を出すと、尾崎は驚いた様子で「結構ですよ」と笑った。



「傘、ありますか?」

尾崎の声に、咲奈は首を横に振る。

「入ってください。僕、近所だし暇なので、屋根のあるところまで送ります」

「助かります。ランドマークタワーのほうに行きます」

山下公園を歩く。

突然の相合い傘。照れた咲奈は、先ほどマスターと尾崎が話していたエッセイを話題にする。

それから、自分は出版社勤務で、文芸出版部であることを話した。

「へえ、出版社勤務なんですか。かっこいいなあ。本好きなので憧れます」

尾崎は、大手電機メーカーの社員だと言った。

言葉のキャッチボール。相槌のリズム。笑顔になったり、うなずいたりのリアクション。

― なんかこの人、話してて心地いい。

咲奈が思っていると、尾崎は、しっとりした声で言った。

「横浜は、普段からよくいらっしゃるんですか?」

「いえ。今回は傷心旅行みたいなもので」

尾崎は微笑んだまま、困ったように眉を寄せた。

「元夫です。不倫されて、最悪な終わり方でした」

「…そうでしたか」

「もう1年経って、忘れていたのに、彼が新しい相手と挙げた結婚式の写真を見てしまって」

― こんなに饒舌になるなんて。

咲奈は尾崎に、不思議な寛大さを感じているのだった。

「僕も…同じです」

「え?」

「1年くらい前に、婚約破棄しました。…彼女が、浮気していて」

雨の中、夜景がじんわりと光って浮かぶ。



「…婚約破棄」

「そう」

「なんか…恋愛、しんどいですね」

「恋愛、ほんとしんどい」

2人はクツクツと笑い合う。

― なんだろう。この、寂しいのに、楽しい感じ。

咲奈は一生独身だと決めて、仕事に没頭してきた。でも今、強がっていた心が溶かされていくように感じる。

同時に咲奈は、強烈な空腹を覚えた。

今日は朝食ビュッフェ以来、何も食べていないのだった。

― 達也のことで食欲がなくなってたけど…。

「なんか笑ったら、お腹がすいてきました」

「…僕もです」

「え、尾崎さんも、ご飯食べていないんですか?」

尾崎は、曖昧にうなずいてから、提案した。

「…もし差し支えなければ、中華街に行きますか?」

どちらからともなく、今来た道を引き返す。

春の雨。

ポツポツと傘を打つリズムが、咲奈の跳ねる心音に重なる。


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