人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:バーで出会ったミステリアスな男性に惹かれ、交際した27歳女。彼には意外な過去があり…



寄せ書きの裏側【前編】


「うわぁ、いい感じのお店。ここ、ずっと気になっていたんです」

美月は店内を見回しながら、テーブルを挟んで向かいに座る紗理奈に礼を述べる。

紗理奈は、同じ大手損害保険会社に勤める3歳上の先輩。

今日は仕事終わりに、職場近くの居酒屋に連れてきてもらっていた。

「紗理奈さん、ありがとうございます。さすがにひとりじゃ入る勇気なくって…」

「私も久しぶり。以前は、同期の子とたまに飲みに来てたんだけど。彼女が異動してからはめっきり来なくなっちゃって」

店は、軒先に赤提灯のぶら下がった創業50年以上になる焼き鳥屋で、界隈では隠れた名店として知られている。

店内には会社帰りのサラリーマンが多く、煙や炭火の匂いが漂うなかでの活気に満ちた雰囲気が、酒好きには心地よい。

「お疲れ〜!」

運ばれてきたズシッと重みのあるビールジョッキを合わせ、口もとに運ぶ。

冷たいビールが喉を通過し胃に流れ込むと、1日の疲れが癒えていく。

「美月が、こっちに異動してきて3年かぁ…」

紗理奈がしみじみとした様子で言うのには、ある理由があった。

美月は新卒で新宿本社に4年勤務した後、今の日本橋支社に異動した。

以来、紗理奈とは親しくしてきたが、1ヶ月後に退社を控えている。

「オーストラリアに語学留学だっけ?いいなぁ。行ったことない」

「紗理奈さん、ぜひ遊びに来てください!」

「うん!行きたい行きたい!」

紗理奈が嬉しそうな笑顔を見せる。

「けど、美月は偉いよね。キャリアアップのためっていう明確な目標があるんだから」

「いずれは、海外で仕事がしたくって。今のうちにビジネス英語のスキルアップを図ろうと思って」

「うん。偉い偉い」

将来のビジョンを伝え、素直に感心する紗理奈を前に、美月は少し胸が痛んだ。


店内の壁や天井際には、多くの色紙が飾られている。

美月はそれらを興味深く眺めた。

「いっぱいサインがある。たくさん有名人が来てるんですね」

「ね。でも、なんて書いてあるのかわからないのもいっぱいあるよね」

文字を崩し過ぎて名前が判別できないもの、読めはするが誰だか認識できない正体不明のものなど、多数並んでいる。

日付も古いものから最近のものまであり、長い歴史のなかでいかにこの店が愛されてきたかが感じられた。

「そうだ。このお店、鳥刺しが美味しいんだよ」

「ええっ、食べたい!」

紗理奈は「お母さん」と言って、70代と思しき女性店員を呼び止め、注文を告げる。

「あいよ!」

年齢にそぐわない威勢のいい返事が戻ってきた。

美月は店内の様子を何気なく見渡し、改めてこの空間に心地よさをおぼえた。

― 留学すれば、しばらくは訪れることができない。

紗理奈のような頼れる先輩も、親しい友人もいなくなる。

美月は、日本を離れるのを少しばかり寂しく感じた。



美月の退職日が、あと2週間に迫った。

仕事を終えた後、男と食事に出かけた美月は、自分の住む恵比寿のマンションに男と共に戻ってきた。

「そろそろ準備はしているのかい?」

ソファに腰をおろし、周囲を見回しながらたずねたのは、上司の浅野だ。



オーストラリアへの渡航準備について気にかけているようだった。

「うん、まだちょっと…。引き継ぎで忙しくって…」

美月は浅野の隣に座り、寄り添うように首を傾けた。

彼は、美月の勤める日本橋支社で、営業二課の課長を務めている。

交際はしているものの、浅野は既婚者。2人は不倫関係という間柄にあった。

「今度、買いものを手伝ってほしいんだけど。いい?」

「ああ、もちろんだよ」

浅野の優しい微笑みに、美月はひと時の安らぎをおぼえる。

浅野との関係は、日本橋支社に異動してから始まり、すでに2年近く続いている。

40代半ばながら、スーツの上からでも伝わってくるほど、筋肉質で均整の取れた肉体をしており、色気があふれている浅野。

課内において、密かに憧れを抱く女性の存在もちらほらと感じていたが、美月が射止めるかたちとなった。

もちろん交際は極秘事項であり、美月も信頼できる同僚にしか伝えていない。

実は、美月が退職する理由について、語学留学を名目として掲げているが、1番の目的は浅野と一緒になることだった。

不倫関係が社内で明るみになれば、厳しいペナルティが課されてしまう。

出世欲の強い浅野にとっては、避けなければいけない状況である。

そこで、2人は、疑いの目を向けられないための計画を練った。

まず、美月が退社し海外へ渡航。そのあいだに浅野が離婚をする。

そして、半年ほどで美月が留学から戻ったタイミングで、交際が始まったことにするというシナリオを描いたのだ。



だから美月は、留学について感心されると、後ろめたさを感じるのだった。

「あ、そうだ…」

浅野が身をゆすり、傍らにあるビジネスバッグに手を伸ばした。中から、1枚の四角い用紙を取り出す。

「んん?色紙…?」

「そう。斎藤さんから受け取ってさ」

「え、紗理奈さんから?」

どうやら紗理奈は、美月に贈るための“寄せ書き”を作成しているようだった。


色紙の中央には、贈り相手である美月の名前が記載され、周囲はまだ何も書き込まれていない状態だった。

「斎藤さんに『まずは課長から』ってお願いされて。明日までに書いてくるからって、預かってるんだ」

美月は、色紙を手に取って眺める。

― もしかして紗理奈さん、この前飲みに行ったとき、店内に飾られていたサイン色紙を見てコレを思いついたのかな?

「なんか、もらうの気まずいなぁ…」

退社理由である真の目的を思うと、同僚たちを騙しているようでもあり、気が咎める。

「なんとかやめさせられないかなぁ…」

「もう作り始めちゃってるし。厳しいんじゃないか?」

送別会が予定されていることは、美月の耳にもすでに入っていた。

色紙はその場で手渡されるものと思われる。

どんな顔をして受け取ればいいのか、考えると憂鬱になった。



美月の送別会は、銀座の大人数収容できる個室ダイニングで行われた。



同じ課で働く15人ほどの社員が集まった。なかには浅野の姿もある。

美月のもとに、代わるがわる同僚がやってきて会話を交わす。

懐かしみながらも名残を惜しんで、ひと通り全員との会話を終えたところで、最後に美月の挨拶となった。

「ここでの経験を活かし、今後も頑張っていきたいと思います。今日はこのような会を開いて頂いて、本当にありがとうございました」

送別会に参加するにあたり、どんな心持ちで臨めばいいか悩んでいたところはあったが、思いのほか胸の奥から込み上げてくるものがあった。

美月は時おり言葉を詰まらせながらも、挨拶を終えた。

すると、紗理奈が花束を持って美月の前に現れる。

「お疲れさま。頑張ってね」

花束に加えて、例の寄せ書きが手渡された。

「うわっ、すごい!」

受け取ったときに取るべきリアクションに迷いはあったものの、美月の口から素直に感嘆の声が漏れた。

色紙は、色とりどりのペンで書かれたメッセージで、びっしりと埋め尽くされていた。

同じ課のメンバーだけでなく、親しくしていた他の課の社員、取引相手の名前も見受けられ、作成にかなり手間のかけられた様子が窺える。

「これ、表が全部埋まっちゃって…」

紗理奈が色紙を裏返すと、反対側にもメッセージが書かれていた。

そこで、美月はある言葉に目を留めた。

『お疲れさま。気をつけて』

黒いペンで書かれた短い文章だった。

『気をつけて』という文言に意味深長な印象を受ける。

名前は、『深山法子』と書かれていた。

― ええ…。誰だったっけ…?

身近なところに思い当たる人物はいない。



― あっ!もしかしたら掃除のおばちゃんかも…。

たまに会話を交わす、職場に出入りしている清掃業者の女性を思い出す。

留学の話も伝えていたので、注意を促しているのだと思われた。

「ありがとうございます!」

美月は感極まり、紗理奈に礼を述べる。

寄せ書きを贈られるのには抵抗があったものの、受け取ってみるとそれは嬉しく、随分と心を動かされた。

目を潤ませながら手を伸ばす紗理奈と、抱擁を交わす。

どこか冷めた目で眺める浅野を、視界の端に捉えながら…。


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留学直前に再び居酒屋を訪問。寄せ書きにあった知らない人物の正体が明らかに…