東京に点在する、いくつものバー。

そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。

どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。

カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。

▶前回:一橋卒の28歳エリート証券マン。上司から誘われ、日本橋のバーに渋々付いて行ったら…



Vol.5 <マンハッタン/セントラルパーク> 橘秀之(40)の場合


「橘さん、ご馳走さまでした」

「おう、付き合ってもらってありがとな」

「今夜は本当にありがとうございました。俺、もう一踏ん張りしてきます!」

「うん、頑張れよ」

体育会の学生のような威勢のいい挨拶は、本来静かなバーにはそぐわない。

けれど、たまたま他に客がいないこと。ここが橘の10年来の行きつけであること。そして何より…すっかり目に光が戻った部下・新田の様子が微笑ましくて、橘は父親のように目尻を下げる。

ジンフィズを飲み終えた新田が弾丸のようにドアを飛び出していくのを、バーテンダーと一緒に微笑みながら見送った。

そして再び店内に穏やかな静寂が訪れると、バーテンダーは、橘に問いかけた。

「彼、昔の橘さんに似ているっておっしゃってましたよね。橘さんも、昔はあんなにパワフルだったんですか?」

「なんだぁ?今の俺が元気ないみたいに言うなよ」

そんな軽口を叩きながらも、橘は眼を細める。

「まあ、そうだな。俺があいつくらいの時は…あいつよりももっと、頼りなかったかもな」

そして、残り少なくなったジンフィズのグラスを傾けながら、自身が28歳の時の頃を思い返す。

橘が28歳だったのは、もう12年も前だ。

今でこそ転職も経験し証券会社で役職付きとなっているものの、当時はまだ大手損保に入社6年目のいちペーペー。

大して自信もない語学力を見込まれ、独り身のままNY支店に駐在をしていた頃だ。

慣れない業務に慣れない英語で、もちろん仕事は大変だった。

けれど当時を振り返っても、橘の胸に込み上げてくるのは苦労の酸味ではなく、ほろ苦さを孕んだ甘さなのだった。




「ヒデ〜!Hey I'm back!おまたせ〜」

「おせーよ、リサ」

「Oh〜, you miss me, right? ごめんね、遅くなっちゃって」

夕日が沈む午後8時頃。

業務を終えた橘が、セントラルパークからほど近い老舗のレストランバーで、リサを待つのはいつものことだった。

3歳年下のリサは、いつも少し遅れて待ち合わせに現れる。2人が初めて会った日本人コミュニティの飲み会でも、遅刻してきたリサは目立っていた。

いや、リサが目立ったのは、遅刻してきたからというだけではない。

日本人とアメリカ人のミックスで、ブロードウェイ女優の卵として活動するリサは、どんな場所でも人の目を惹いた。

透き通ったアンバーの瞳に、エキゾチックなブルネットの髪。ミステリアスな薄い唇…。

なにより、自身の未来を信じて疑わないキラキラとした表情が、リサという女性の美しさを何倍にも増幅させていた。

橘の隣の席に腰を下ろしたリサは、大袈裟にため息をついて髪をかき分ける。

「あー!お腹すいたぁ」

「今日もこの時間までダンスのレッスンだったんだろ?オーディション、通るといいな」

「Thanks、ダンスは演技の基本だもの。私、次の舞台こそ絶対受かってみせるって決めてるの!いい?ヒデ。未来を掴むために一番大切なのは基本よ、基本」

一端の女優のように胸を張るリサを眩しく感じながら、橘は促す。

「OK、OK。で、何飲む?」

「ヒデは何飲んでるの?って、聞かなくてもわかるけど。

マンハッタン…でしょ?」



リサが言う通り、橘がこのバーで頼むカクテルは、いつだってマンハッタンだった。

ウイスキーとスイート・ベルモットの甘みと、アンゴスチュラ・ビターズの香りが引き立てる都会的なカクテル。グラスの縁にはマンハッタンの夕日のように、真っ赤なチェリーが沈みかけている。

今いる場所の名前がついているから…と安直に注文してみたのがこのカクテルとの出合いだったものの、今ではすっかり橘のお気に入りになっている。

けれどそんな単純な出合いを、リサは決まって面白そうに笑うのだった。

「ほんと、ヒデって簡単だよねぇ。マンハッタンに住んでるから、マンハッタンが好きなんて。It’s sooo funny」

「美味いんだからいいだろ。そういうリサだって、わかってるんだぞ。お前なんて、飲めなくてノンアルコール注文するくせに」

「私は飲めないんじゃなくて、飲まないの!女優として、いつでも健康には気を使わなくちゃ。Hi, can I have a Shirley Temple?」

そうバーテンダーに注文しながら、リサは片手で橘のマンハッタンのチェリーを掠め取る。

そして、チェリーの窃盗被害に憤慨する橘をなだめるように、リサの方から優しいキスをして──。

それが、橘とリサの、いつものデートのお約束なのだった。



橘がニューヨーク駐在員になって3年。リサとの関係は、もうすぐ1年が経とうとしている。

日本式に、はっきりとした告白があったわけではない。かと言って、アメリカ式に堂々とI love youと囁き合うわけでもない。

日本とアメリカの消極的な部分を掛け合わせたような、曖昧な関係だった。けれど、2人の間には確かに特別な愛情があった。

なにより、いまいちここニューヨークでの仕事に情熱が持てず、ダラダラと日々を過ごしてしまう橘にとっては、リサはただの恋人というだけではない。

女優という夢に向かってまっすぐ進み続けるリサの存在は、眩しくて、尊くて、尊敬に値する存在だったのだ。

ふたり席を並べてグラスを交わすバーからは、夕日に染まる美しいセントラルパークが見渡せる。

― ああ、いつまでもこうしていたいな。リサのそばで、彼女の光を浴びていたい。

マンハッタンのチェリーをイタズラっぽく口に放り込むリサが、無性に愛しくて…28歳の橘は、ひたすらそれだけを祈っていた。

リサのそばにいたい。キラキラと輝くリサの夢を、ずっと隣で見ていたい。

けれど、その夢は長くは続かなかった。

出会ってちょうど1年の歳月が経とうという頃──。

橘に、帰国の内示が出た。


内示が出たその日。

橘は、いつものようにあのレストランバーでリサと落ち合った。

いつものようにマンハッタンを頼み、だんだんと茜色に染まっていくセントラルパークを見ながら、リサを待つ。

どうしてなのか、リサが訪れたのはいつもよりも遅い時間だった。橘のマンハッタンのグラスには、すでに残りわずかな量のカクテルと、チェリーしか残っていない。

そして…。

「一緒に日本に帰ろう」という一か八かの誘いは、リサの瞳から無言のままこぼれ落ちた涙で、否定された。

最後のマンハッタンのチェリーは、もうリサに掠め取られることはなく、空っぽになったグラスに沈んだままだった。



「あぁ、それからだな…。俺が仕事にがむしゃらになり出したのは」

橘の口から無意識のうちに漏れた言葉に、バーテンダーが怪訝な顔をする。

「すみません、何かおっしゃいましたか?」

「いや、なんでもないよ」

12年経った今でも、これだけはっきりとした手触りでリサとの恋を思い出せてしまうことに、橘は苦笑いする。

リサと別れたあの日以来、マンハッタンは飲まなくなった。

飲んだら、彼女を思い出してしまうから。

軽率に思い出してしまうにはあまりにも、彼女のことを愛していたから。



結局帰国してから橘は、情熱を持ちきれない仕事から離れて、今の証券会社に転職した。そしてすぐに妻と出会い、結ばれ、娘を授かり、今に至っている。

今ならわかる。男というのは、守りたいと思う大切な人のために頑張るものなのだ。

あの頃、なぜだか仕事に夢中になれなかったのは、自分がリサの夢に乗っかってしまっていたからなのだろう。

12年という年月をかけて、やっと胸のつかえが取れたような気がした橘は、すっかり空になったグラスをバーテンダーに返しながら口を開く。

「もう1杯くらい、何か飲んでいこうかな。…マンハッタン、お願いできる?」

今ならもう、素直な気持ちでマンハッタンを飲むことができるだろう。

いい年をしてこんなセンチメンタルな気持ちに浸ることがやけに恥ずかしく、けじめをつけるいい機会として、12年ぶりにマンハッタンを注文する。

いや…今ならもう、リサのことを想っても、許されると思ったのかもしれない。

「マンハッタン、もちろんです。なんといっても別名“カクテルの女王”、ですからね」

「カクテルの女王か!そりゃいいや」

思えばリサは、女王のように気高い女性だったのだ。誰かに守られ、活力の材料にされるような器ではない。

けれど、橘が奇妙な符号の一致に愉快な気持ちになっていた、その時だった。

心地よいステアの音がしたあと。バーテンダーが、口髭を歪めながら悔しそうに声を絞り出す。

「ああ…橘さん、大変申し訳ございません…!先ほどチェリーが切れてしまっておりました…。

もしよろしければお詫びにご馳走しますので、こちらのカクテルではいかがでしょうか───」



申し訳なさそうにバーテンダーから差し出されたのは、どう見てもマンハッタンそのものだ。

ただし…チェリーの代わりに、生い茂った木々のようなパセリが彩りを添えている。

「<セントラルパーク>でございます。マンハッタンに、チェリーのかわりにパセリの葉を飾ると<セントラルパーク>というカクテルになるんです」

「へぇ…」

意表をつかれた形になったが、橘は素直にグラスに口をつける。

12年ぶりに舌の上に広がる、ウイスキーとスイート・ベルモットの甘み。あの頃と変わらない、アンゴスチュラ・ビターズの香り。

けれど…真っ赤なチェリーに代わって添えられたパセリが、沈みゆく夕日ではなく、子どもたちが駆け回る朝方のセントラルパークを彷彿とさせる。

「はは、全然思い出さないや」

「すみません、何か…?」

「いや、なんでもない。初めて飲んだけど、美味いよ」

予期せぬ方法で未練にも近い感傷を吹き飛ばされた橘は、楽しげな笑みを浮かべる。

あの頃から12年経ち、家族との笑いじわが刻まれた口元を緩めて。

「うん。娘の夏休みに合わせて、久しぶりに家族でニューヨーク旅行でもしようかな。セントラルパークを散歩したくなったよ」

その言葉に、まったく違った意味を込めていたことに、きっとバーテンダーは気づいていないだろう。


― さようなら、俺の女王様。


東京の夜は、いつのまにかすっかり更けている。

ニューヨークは、まぶしい朝だ。


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橘と別れ、女優になるという夢を取ったリサ。あれから12年前後の彼女は…。