TOKYO MX(地上波9ch)のアート番組「わたしの芸術劇場」(毎週土曜日 11:30〜)。この番組では、多摩美術大学卒業で芸術家としても活躍する片桐仁が、美術館を“アートを体験できる劇場”と捉えて、独自の視点から作品の楽しみ方を紹介します。4月17日(土)の放送では「大田区立龍子記念館」に伺いました。

◆異端の芸術家・川端龍子の作品の魅力

大田区立龍子記念館は、大正から昭和にかけて日本画の変革に大きな功績を残した川端龍子が自ら設計した美術館。現在は龍子の作品が約140点所蔵されています。

主任学芸員・木村拓也さん案内のもと展示室に足を踏み入れると、そこには日本画としては異様なほどに大きな作品が。それは龍子40代の頃の作品「龍巻」(1933年)です。そのサイズは高さ3m以上。この大きさは龍子作品の特徴の1つで、木村さんは「従来の日本画のような床の間に飾って個人が楽しむものではなく、美術館で“映える”、お客さんが驚くような作品を目指したのでどんどん大作になった」と解説します。

「龍巻」に描かれているのは、竜巻で巻き上げられ、空から海の仲間が降ってくるというかなり奇想天外な作品で、片桐は「絵に吸い寄せられるよう。技法や技術は日本画、でも洋画のような魅力もあるし……」と唸ります。事実、左下の波の描き方は、いわゆる日本画の様式化された波の描き方で「いろいろなアイデアがこのなかに入っているんですね」と感心しきり。

龍子は、1928年まで日本画壇の最高峰「再興日本美術院」に所属し、そこで既存の日本画路線とは真逆の斬新な作品を次々に発表。その作風は同団体の中心人物、横山大観も高く評価し、2人は厚い信頼関係で結ばれていました。しかし、時に龍子の作品は斬新過ぎ、度々賛否両論を呼ぶことに。「目立つためだけの作品」と猛批判を浴びた龍子は再興日本美術院から脱退し、新たな美術団体「青龍社」を設立。横山大観に反旗を翻した異端の日本画家として注目を集めました。

そんな青龍社が掲げた理念は「会場芸術」。それは床の間芸術に対するアンチテーゼで、彼は大衆と芸術が触れ合う機会を増やすことに全力を注ぎ、展覧会「青龍展」を年に2回開催していました。

◆横山大観に続き、政府へも反旗を翻す川端龍子

次なる作品は、思わず片桐が「すごいですね……これは何を作っているんですか?」と疑問を呈した「海洋を制するもの」(1936年)。そこに描かれているのは戦艦を造っている様子で、龍子は実際に造船所にスケッチに行き作品化。その模様は当時の新聞記事に残っており、「みんな川端龍子が次にどんな作品を描くのか注目していたんですね」と片桐。

この絵をよく見ると、手前の職人が人間離れしており、背中には炎が。これは不動明王を表しているそうで、木村さんは「職人の気迫が神仏の力を借りているかのような、そんな力強さで描いた一作」と評します。

さらに、「今度は横長、これは仏様ですね」と片桐が表現したのは、横のサイズが7mにも及ぶ「花摘雲」(1940年)。この草原のモチーフとなっているのはモンゴルの大平原だとか。というのも、当時は日中戦争の最中で、龍子は従軍画家としてモンゴルに行き、そこで見た大平原に感動。しかし、そこは多くの兵隊が亡くなった激戦地。龍子は未来に大きな不安を感じ、それが作品にも表れていたそうで、片桐もこの作品を見て「静かに見えるけど、ふつふつと沸く炎を感じる」と感想を述べます。

また、1940年はある大きな出来事が。この頃、展覧会は各団体、合同で行うよう国から指示が出ていましたが、龍子は反発。戦争へと突き進む政府に反旗を翻します。そして、展覧会を美術館で行うことをやめ、「青龍展」の舞台を百貨店へと移行。「第12回青龍展」は日本橋三越百貨店で開催され、当時のメディアは“龍子によって芸術がさらに大衆に近づいた”と報じていたそうです。

◆自宅に爆弾が落とされるも展覧会は開催!

続いて片桐の目に留まったのは「怒る富士」(1944年)。一見して「富士山ですかね……すごいな。不穏。こんな富士山見たことない」と感嘆します。元来、赤富士と言えばめでたいものですが、龍子は逆に怒りを表現。当時は太平洋戦争末期で、「雷がめちゃくちゃ鳴っている。戦争のなか、始まりから見てきて、“これはいよいよまずい“と赤富士をモチーフにして訴えている感じがする」と片桐もどこか禍々しさを感じている様子。

当時は国民も困窮。さらには空襲の不安に苛まれていましたが、龍子は展覧会ができるのか、さらには作品を展示することができない怒りや不安がたまり、それがこの絵の黒い雲や真っ赤な富士に象徴されていると解説。ただ、そんな状況においても龍子は展覧会を開催し、片桐は「その気概がすごい」と唸ります。

戦火が激しさを増しても大衆に作品を提示することを諦めなかった龍子は、終戦直前の1945年6月にも多くの美術団体が展覧会の開催を控えるなか、敢行。その会場はなんと自身の家でした。さらには終戦後も他団体に先駆けて開催。敗戦の虚脱感に沈む大衆を強く鼓舞しようとしたそうです。

そこで発表された作品が、龍子の代表作の1つ「爆弾散華」(1945年)。この作品の背景には驚きの逸話が。終戦間際、なんと龍子の自宅に爆弾が落とされます。龍子は九死に一生を得ましたが家は倒壊。しかし、アトリエだけは難を逃れ、そこに籠もって制作されたのがこの作品でした。

そこには食糧である野菜が爆弾によって飛び散る一瞬が描かれており、片桐は「構図は川端龍子らしく、キレイな絵だと思いましたけど、爆発で飛び散っている。しかも直接壊れたものを描くのではなく、飛び散った野菜を描くっていうのは仕掛けていますね」と息を吞みます。

展覧会は敗戦直後の不安のなか、美しさを求める鑑賞者が数多く集まり、この作品に見入っていたそう。それを聞いた片桐は「やはり戦後に見たいのは『怒る富士』より『爆弾散華』。もうあの時代に戻りたくないという気持ちと、これから日本を立て直すという思いが」と感慨に浸っていると、木村さんも「みんな焼け野原のなか集まり、龍子の作品を見てエネルギーをもらい、復興に向けて頑張ろうと思ったのではないか」と推察します。

◆晩年には横山大観との関係を回復、「逆説・生々流転」誕生

最後に片桐が感服したのは全長28mもある「逆説・生々流転」(1959年)。これはその名の通り、横山大観の代表作「生々流転」に掛けたもの。戦後、龍子は長年断絶していた大観との関係を回復。そして、この作品は大観が逝去した翌年に発表しました。どう逆説なのかと言えば、大観は自然の恵みを描いていますが、これは逆に自然の脅威を描いています。そのタイトルからは「生々流転」に意を唱えたかのように思えますが、これは「私は大観の唯一無二の反逆児である」という龍子なりの追悼の意が込められていました。

龍子はその後、青龍社での活動が評価され、74歳で文化勲章を受賞。77歳の喜寿を記念し、自らの画業を後世に伝える「龍子記念館」を設立しました。80歳で永眠した後も龍子の分身である大作の数々がこの場所で彼の偉業を語り継いでいます。

龍子の作品を満喫した片桐は、改めて彼の業績を讃えつつ「激動の戦前、戦後を生きた方が描き続けた絵を体感できるというのは記念館あってのこと。奇をてらうことなく、なおかつその時代の人に向けてわかりやすくインパクトを与える画家としてのセンス、天晴れだなと思います」と大きな拍手を贈っていました。

そして、最後は隣接する川端龍子のアトリエへ。片桐は「広いですね〜。大作を描くから支度する場所も広い」と感動。しかも、そこにある画材は龍子が亡くなる直前まで描いていた当時のものがそのまま残っており、「こういうのを見ると、ここで描いていたんだなと(気分が)アガりますよね。マジックインキもある。これを使っていたんですね!」と見入っていました。

※開館状況は大田区立龍子記念館の公式サイトでご確認ください。

※この番組の記事一覧を見る

<番組概要>番組名:わたしの芸術劇場放送日時:毎週土曜 11:30〜11:55<TOKYO MX1>、毎週日曜 8:00〜8:25<TOKYO MX2>「エムキャス」でも同時配信出演者:片桐仁番組Webサイト:https://s.mxtv.jp/variety/geijutsu_gekijou/