TOKYO MX(地上波9ch)のアート番組「わたしの芸術劇場」(毎週土曜日 11:30〜)。この番組は多摩美術大学卒で芸術家としても活躍する俳優・片桐仁が、美術館を“アートを体験できる劇場”と捉え、独自の視点から作品の楽しみ方を紹介します。10月30日(土)の放送では「東京都美術館」でフィンセント・ファン・ゴッホの生涯に迫りました。

◆天才画家と称されるゴッホの初心者時代

今回の舞台は東京都台東区、上野公園内にある東京都美術館。ここは1926(大正15)年に日本初の公立美術館として誕生。以降、世界と日本の名作に出会える美術館として広く社会にアートを伝え続けています。片桐は、そんな東京都美術館で開催されていた「ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」へ。

「ちょっと変わっていますよね」と片桐がまず注目したのはそのタイトル。ヘレーネとは「ヘレーネ・クレラー=ミュラー」。彼女は個人でゴッホ作品を世界で最も集めた収集家。この展覧会はそのヘレーネが設立したオランダのクレラー=ミュラー美術館の作品を中心に、37歳で生涯を閉じたゴッホの初期から晩年までの画業を辿ります。

同館の学芸員・大橋菜都子さんの案内のもと、片桐はゴッホが画家になったばかりの頃の素描を鑑賞していきます。

「これはゴッホなんですか?」と訝しんだのは、「砂地の木の根」(1882年)。1853年、オランダの牧師の家に生まれたゴッホは、画商や教師などの仕事を経て、聖職者を目指すも挫折。27歳の頃に画家になることを決意。今作はそれから約2年後、29歳のときの作品で、片桐は「我々のイメージするゴッホの感じではない」と驚きます。

画家を志したゴッホは絵具で描くよりも素描の訓練が大事だと考え、最初の約3年は素描に集中。彼は“天才画家”と称されることもしばしばですが、とても勉強熱心で、本を読んだり、敬愛する画家の作品から独学で絵について学習したそうです。

続いては油絵。これまた「ゴッホと言われないとわからない」と目を白黒させていたのは「麦わら帽子のある静物」(1881年)。これは義理のいとこにあたる画家に教えを請いにいったときに描かれたもので、硬さの違うものがモチーフがいかにも訓練用の様相。まだ油絵具をあまり扱ったことのない時代の作品だけに、片桐は「これを見たら“えっ!?”って思うでしょうね。いきなりああはならないですよね。いくら天才だって」と少々安堵。

ただ、「白い帽子を被った女の顔」(1884年)になると「数年でもうゴッホですね(笑)。この色の感じとか、ゴッホ感が出ましたね」と言う通り、誰もが知るゴッホの作風に。この頃、彼は敬愛するフランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワの色彩理論を学び補色(反対色)を実践。画家になって4年、独自の表現を模索し始めます。

そして、転機となったのが1886年。33歳で彼は画商をしていた弟のテオを頼り、芸術の中心地パリへと向かいます。そこで印象派や新印象派の人々と出会い、ゴッホは大きな衝撃を受けることとなります。

◆オランダからパリへと向かい才能が開花

パリに移った後に描いた「レストランの内部」(1887年)は、それまでと打って変わって点描の作品です。

ゴッホはパリで自分がいかに時代遅れだったかに気づき、新印象派の点描技法を吸収して描いたのが本作。ただ、点描技法は時間を要し、色彩理論を厳密に表現すると大変なため、ゴッホには馴染まなかったとか。片桐も「(ゴッホは)“この瞬間を”って感じで、これは1日では描けないですもんね」と納得しつつ、「パリに出て本当によかった。でも、オランダがあるからこそパリがいいんですけど」と語ります。

パリで芸術を追求する画家たちに刺激を受けたゴッホは新天地を求め、南フランスのアルルへ。そこで芸術家仲間と思う存分創作に打ち込める共同生活を夢見ますが、それは実現しませんでした。

当時、アルル駅近くに借りた黄色い家をアトリエ兼住居としていたゴッホ。その家が描かれているのが「黄色い家(通り)」(1888年)。彼は何人もの画家にここで一緒に絵を描こうと誘いますが、やってきたのはポール・ゴーガンのみ。しかし、ゴーガンとの生活も約2ヵ月程度で破綻。というのも、共同生活中にゴッホは最初の発作を起こし、自分の耳を切断してしまいます。

希望とともにやってきたアルルで心を病んでしまったゴッホですが、そこで描かれた作品のなかには生命の息吹を讃える明るい光のタッチのものも多数。片桐が「これゴッホですか? 初めて見た」と目を丸くしていた「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」(1888年)がまさにそれ。

「(ゴッホ作品には)サインがないものも多いなかで、赤でフィンセントと書かれたこのサインがいいですね。海でテンションが上がっている感じがします」と片桐。ゴッホは地中海に魅せられ、目まぐるしく色の変わる海の光の反射を捉えようとしていたそう。

そして、同じ年に描かれたのが「種まく人」(1888年)。これは尊敬するジャン=フランソワ・ミレーの「種をまく人」に独自の色彩を加え、自らの個性を確立した作品で、片桐は「この色使いですよね。何色なんですかね……」と圧倒されます。

パリで新たな表現技法を吸収し、アルルに移って自分なりの表現を確立していくなか、「そこで自分が憧れた原点のミレーをモチーフに持ってきたのが面白い」と膝を打ちます。しかし、心を病み、たびたび発作を起こしていたゴッホは、1889年に自らサン=レミにある療養所に入院することに。

◆晩年にはゴッホした描けない世界に到達

療養のもと心の平穏を取り戻したゴッホは、医師の許可を受け、入院中も制作。そして完成させたのが、「サン=レミの療養院の庭」(1889年)。

「すごい絵ですね。入院しながら描いている感じ。でも、この絵を描いているときはすごく冷静だったと思います」、「色数がすごいし、絵具もいっぱい使っていますし、絵を描くことで開放されているというか、冷静になっている気がする。絵と向き合えている」と片桐が評するこの作品は、サン=レミの療養所の庭にたくさん花が咲いていることに喜び、張り切って描いていたそう。

この後、彼は再び情熱を取り戻し、創作活動を再開。そして、遂にはゴッホにしか描けない独自の表現に到達します。それが「夜のプロヴァンスの田舎道」(1890年)。

ゴッホはサン=レミから北フランスのオーヴェル・シュル・オワーズへと移るのですが、その直前に描かれたのが本作。中央に描かれている“糸杉”は死の象徴と言われることもあるものの、ここでは南フランスの風景に高く、力強くそびえ、とても生命力を感じさせます。

片桐も作品を前に「エネルギーの象徴みたいな感じ」と目を見張り、「この絵を見てどう思うかはみんなの自由だと思いますが、ゴッホは実物を見ないとわからない」と断言。「人生と重なり、出会いと重なり、いろいろな刺激を受けた結果こうなっているわけだから、それを初期段階から見て、ここまでいったかっていうのは衝撃」と唸ります。しかし、ゴッホはこの作品を完成させた2ヵ月後、37歳で自ら人生に幕を下ろします。

大好きなゴッホの作品をたっぷりと堪能した片桐は「絵を始めて10年でここまで人間が変わることを、絵を通して感じることができる。ぜひ本物のゴッホを見て体感してほしい」と熱望。そして、「フィンセント・ファン・ゴッホの短くも濃厚な画家人生、素晴らしい!」と称賛し、人生を絵に捧げた孤高の天才に拍手を贈っていました。

◆今日のアンコールは、「善きサマリア人(ドラクロワによる)」

ゴッホ展に展示されている作品のなかで、ストーリーに入らなかったものからどうしても見てもらいたい作品をアンコールで紹介する「今日のアンコール」。今回、片桐が選んだのは「善きサマリア人(ドラクロワによる)」(1890年)。

これはドラクロワの作品を模したもので、「すごくないですか?」と片桐。「もう馬、人の服、奥の山々、全部がゴッホ。どこがドラクロワやねんという感じなんですけど、ゴッホは何を描いてもゴッホ。この最後の1〜2年の絵はすごい!」と改めて感動していました。

最後はゴッホ展の特設ショップへ。「すごい規模ですよ!」と心踊らせ、刺繍キーホルダーやTシャツなど、同展のオリジナルグッズに終始目を輝かせる片桐でした。

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<番組概要>番組名:わたしの芸術劇場放送日時:毎週土曜 11:30〜11:55<TOKYO MX1>、毎週日曜 8:00〜8:25<TOKYO MX2>「エムキャス」でも同時配信出演者:片桐仁番組Webサイト:https://s.mxtv.jp/variety/geijutsu_gekijou/