人恋しくて非業の死を遂げたスタルヒンの思い出

人恋しくて非業の死を遂げたスタルヒンの思い出

【越智正典 ネット裏】日本ハムとソフトバンクが札幌から旭川に転戦、9月16日、スタルヒン球場で戦った。

 球場前にビクトル・スタルヒンが快速球を投げ込もうとしているピッチング像。南に向かって投げている。函館のオーシャンスタジアム前には巨人軍の名捕手、初代主将久慈次郎像。久慈は北に向かって構えている。二人は昭和9年、巨人軍誕生につながるベーブ・ルースら“世界最強軍”と対戦したバッテリーである。

 巨人V9監督川上哲治は、折々表敬していた。「わたしは沢村(栄治)さんのホントの全盛期を知らないのです。昭和13年に入団したときは戦争に持って行かれていました(応召3度、昭和19年12月2日戦死)。ですから知っているのはスタさんです。スタさんこそ巨人軍第一期黄金時代を拓いた大投手です」

 スタルヒン投手を上井草球場で見た日が思い出される。闘志の捕手吉原正喜から返球されると、丁寧にボールをこねてからモーション。からだを沈め、ぐーんと伸び上がると、センターうしろの松林の上から投げ込んでいるように見えた。ウイニングショットが外角低目のストレートだったのに胸がおどった。

 職業野球が年1季の長期戦を始めた昭和14年、42勝完封10、15敗。昭和15年38勝。完封はなんと16、12敗。勝数が凄いが投球回数が凄い。昭和14年458回1/3、昭和15年436回。戦時下、姓名を須田博に変えさせられたのはよく知られているが、外国人は他府県へ移動するときは警視庁に出頭し届け出なければなからなかった。横浜で試合のときは「他府県」になるから大変だったのに、例えば昭和15年の防御率は0・97。

 17歳で旭川を発った彼はおかあさんに仕送りをするのが何よりのたのしみだった。事情があっておかあさんはパンを売って彼を育てた。彼には巨人入団時の監督、藤本定義が“おとうさん”だった。戦後、藤本を慕い、パシフィック、太陽、金星、大映…に移って投げたのだが、本紙評論家だった青田昇は「スタさんにはお世話になったなー。終戦後の北海道遠征は食糧買い出し遠征。米はムリだったが小麦粉やジャガイモが手に入った。帰りにスタさんに、たのむよ、というと、ぼくらの車両の入り口にずうーと立っていてくれたんだ。駅々で経済警察が取り締まりに来たが、スタさんを見ると、進駐軍か…と調べられなかった。つかまったら食糧は没収。一晩くらいは警察に泊められたのに、気のいい先輩だったあー」

 303勝。最多勝6回、最高殊勲選手2回…。

 現役引退から1年後の昭和32年1月12日、交通事故で40歳の短い生涯を閉じた。その日は、往時の旭川中学(旭川東高)の仲間たちが集まる日であった。人恋しく、道を急いだのであろうか。

「ウイージャー(少年野球を始めた日章小学校時代のスタルヒンの幼名)はきっとそうだよ、淋しかったんだなあー」

 原巨人の優勝が近づいている。 =敬称略=


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