【プロレス蔵出し写真館】広大な土地にひときわ大きな建物が建っていた。イベント会場かと見まがう自慢の豪邸。

「ハイウエー401号線を通るドライバーはみんなウチを見る。特に夜はライトアップされ、ウチだけが目立っているからな」。そう自慢げに語りポーズを取るのはタイガー・ジェット・シンだ(写真)。

 今から35年前の1988年(昭和63年)11月16日、川野辺修記者とカナダ・トロントのダウンタウンから約40キロ、オンタリオ州ミルトンのシンの自宅を訪ねた。当時は家の前は道路があるだけだったが、その後、庭やら噴水の装飾が施されたようだ。

 案内してくれたのは川野辺記者の大学の先輩、小幡宰さん。川野辺記者は「先輩はトロントの日本領事館に務めている。シンのワーキングビザ取得を手配している」と説明してくれた。

「シンが『オレは日本ではビッグスターだ。スゴイだろ』。そう言って東スポを見せるんだって。で、小幡さんが『その記事を書いてるのは私の後輩だ』って言ったら、シンの態度がコロッと変わっちゃって。それまで、シンから蹴飛ばされたり、サーベルでしばかれたりしてたんだけど、ファミリーみたいな扱いになっちゃって…。今度トロントへ行くんだけどって話したら『じゃ、ぜひウチに来てくれよ』って言われて、じゃあ先輩も一緒に行くからよろしくとシンに伝えてたんだよ」。シンの家に着く前に、そう教えてくれた。

 そう、シンは最も〝恐ろしいレスラー〟だった。東スポでもテレビ朝日で解説を務めた桜井康雄編集局長をはじめ、現場の記者やカメラマンは必ず一度は殴られるか蹴られた。全日本プロレス参戦時、いきなり外国人控室からものすごい勢いで飛び出してきた記者もいた。顔から血を流し、つんのめって転んでいた。控室でいきなりシンにサーベルで殴られたと、息を弾ませ口を開いた。

 まさに〝脱兎のごとく〟という言葉がピッタリの光景を今でも思い出す。私は幸いに、一度蹴飛ばされただけだったが、自宅豪邸の写真をプレゼントしてから、控室での撮影もOKになり手を出されることはなかった。

 今でこそ〝慈善の人〟と言われるシンだが、全盛時はまさに〝インドの狂える虎〟だった。

 さて、そんなシンが今年4月29日付で発表された外国人叙勲として旭日双光章を受章した。政治や芸術、文化などの分野で功績を残した人に贈られるという叙勲は1年に2回、春と秋にありシンは〝スポーツを通じた日本とカナダの友好親善・相互理解の促進に寄与〟したとして春の叙勲に選ばれた。

 シンが主宰する慈善団体「タイガー・ジェット・シン財団」は2011年の東日本大震災の被災者支援活動をはじめとする、日本との友好親善への貢献を評価され、21年2月25日には佐々山拓也・駐トロント総領事から在外公館長表彰も授与されている。

 シンは「世界は日本のために祈る」と日本語で書かれたリストバンドを製作し、10年秋にミルトンに開校した「タイガー・ジェット・シン学校」を中心に1つ5カナダドル(当時、約420円)で販売し、2か月で1万個以上も売ったという。リストバンドの収益金はすべて義援金として日本に送られた。

 03年にはカナダ政府から特別功労賞を贈られ、07年にはミルトンの市政150年を記念して設立された「ウオーク・オブ・フェーム」(市民栄誉賞)を長男(タイガー・アリ・シン)と親子で受賞。同年7月1日にはオープンカーによるパレードも行われた。

 今回の叙勲で共同通信社が行ったインタビューでは、「日本は第2の故郷、家族のような存在。(アントニオ)猪木が一番強かった。試合後は打撃の痛みが数週間残った」と語り、「日本のすべてのプロレスファンへ与えられた栄誉だ」と話した。

 外国人叙勲で旭日双光章を受章したプロレスラーはザ・デストロイヤー(17年)、ミル・マスカラス(21年)についで3人目の快挙だ

 川野辺記者は「インドのマハラジャみたいな家だったよね。地下1階、地上2階。一番自慢していたのは1本の木をくりぬいて作った階段だったね。シンは『家の周辺の土地はすべて自分のモノ。近くの湖だけは買えなかった』って言ってたね。あれは、保護区だから無理だよね」そう言って笑った(敬称略)。