立春から数えて88日目の雑節「八十八夜」に合わせて、各地の茶所で新茶を摘む季節の話題が届いた。保土ケ谷区西部に位置する新井地域には昭和初期まで茶畑が点在し、地場産業として栄えた歴史がある。今その歴史を伝えるのは新井町公園内の一角に植えられている茶樹のみとなった。5月2日には市立新井小学校の3年生が新茶摘みを体験。歴史を知らせる茶樹の一番茶を摘み、製茶作業も体験し「新井茶」を仕上げた。

同校では新井地区のかつての地場産業だった茶栽培の歴史を学んでいる。この日は同公園の茶樹を管理する「茶樹の会」(佐藤貞夫代表)のメンバーから、茶葉の先端にある芽とその下の葉を摘む「一芯二葉」という摘採法をレクチャーされた児童たちが、丁寧に今年の一番茶を摘み取り、製茶作業の荒もみやホイロもみも体験。仕上がった「新井茶」を佐藤代表が学校に届けた。

茶畑があった名残として同校の校章は茶葉と花が図案化されている。そこには「お茶の葉・お茶の花のように丈夫で品性豊に育つように」という思いが込められている。

産地から茶師招き製品改良

幕府領だった林を新井忠兵衛という人物が宝暦年中(1751〜1764年)に開発した「新井新田」。傾斜地で生産性の低い畑が多かったこの地で、明治7年(1874年)、黒崎平七が中兵衛から土地を借り受け茶樹7万3千本を植え、お茶の栽培を始めたとされている。しかし、その2年後に平七は茶樹を手放した。下菅田村で代々役人を務める鈴木政右衛門が新井新田の所有者となり、手放された茶樹を守ったという。

その当初、茶畑では番茶の生産が主流だったが、茶栽培の先進地である宇治や駿河から茶師を招き、技術を習得するなど、製品の改良に努力を重ね、明治13年(1880年)以降は収量が増え、安定した茶園経営がなされた。

明治16年(1883年)、兵庫県神戸の製茶共進会に出品。せん茶が六等褒賞を受けるほどにまで品質も向上した。

18戸の農家が茶の栽培を手掛け、地場産業として定着した茶園では昭和12年(1937年)ごろまで栽培が行われていたが、戦時中の食料増産体制で茶畑はサツマイモ畑や麦畑に変わり、戦後は大規模団地の建設や宅地開発などで次第に衰退した歴史がある。

急務の課題は「担い手育成」

昭和初期まで茶畑が点在していた新井地区。現在は新井町公園の一角に植えられた茶樹がその歴史を伝えている。

公園愛護会の下部組織として地元有志で組織する「茶樹の会」が世話を続け、毎年、「八十八夜」前後に新井小の児童が一番茶を摘採。製茶作業の荒もみやホイロもみも体験し、仕上がった「新井茶」を味わっている。

「お茶の栽培はこの地域の遺産です」。そう話すのは茶樹の会の深田道子さん。「この『地域遺産』を若い世代に継いで行きたい」という。

しかし、大きな課題に直面しているのも事実だ。メンバーの多くが80歳前後の高齢者で、茶樹の維持管理を担い続けるには限界が近づいている。地域内で取り組みへの賛同者を求める活動を約8年前から続け、一時は光明が見え始めたがコロナ禍で後進育成が途絶えた。「新井地域以外の人でも構わない。茶樹を守ってもらえる人が出てきてくれればありがたい」。メンバーはそう話している。問い合わせは佐藤代表【電話】045・383・3831。