投資についてのセミナーや書籍の中で、「お金」というものをどう定義するかが、しばしば問題になる。「お金が好きだ!」と無条件に思っている人たち同士が集まっている場合には特段問題はないのだが(そういう集まりもある)、筆者の観察するところ、平均的な人はお金がそれほど好きではない。

お金が欲しいのは、なければ困るからだというのが一面の理由であり、お金を巡るシステムは便利ではあるけれども、必要悪的な存在だ、というくらいに思っている人が割合多いのではないか。

お金が「汚いもの」だと思っている人も少なくない。特に教育関係者の一部にこうした意識があることは、学校での金銭教育、投資教育が進まないことの要因の一つだろう。

筆者は、「お金は自由を拡大する手段だ」と説明することにしている。

例えば、以下のような調子だ。「ひとことで言うと、お金は自由を拡大する手段です。お金があれば、欲しい物が手に入ったり、行きたいところに行けたり、必用な情報が手に入ったり、他人からサービス受けたりすることができるし、助けたいと思う人を助けるためにも役に立ちます。お金があれば、できることの範囲が広がると言えるでしょう」という。

さらに「お金があるだけで幸せになれるわけではありませんが、お金で避けられる不幸は数多くあります。備えとしてのお金がある状態には、お金がない状態よりも安心な面があります。ただし、お金はあくまでも手段であって、目的ではありません。手段として合理的に扱うことが大切です」と続ける。

説明上の工夫は、お金が拡大する自由のリストの中に、「助けたい人を助ける自由」を必ず付け加えることだ。「自分のための自由」のリストを並べた後に、利他的な行為も拡大できるのだと強調すると、聞き手の中の数人に一人くらいの割合で、ほっとしたように表情が緩んだり、頷いたりする人がいるのがわかる。

お金の実質的意味とは?

「自由を拡大する手段」というのは、個人の立場から見たお金の機能だが、社会全体の中でお金はどのような機能を持っていると考えるべきなのか。

包括的に定義するとすれば、お金は「他人を動かす力を数値化したものだ」と言えるだろう。「他人を動かす力」とは、何やら物騒な響きで、投資教育の導入段階には不向きだ。お金でモノを買うという行為は、モノの持ち主をそのモノの所有権を譲るように動かす行為なので、お金をモノと交換するのと同時に、お金は人を動かしている。

人間は「社会的動物」と呼ばれるくらいで、他人のために動いたり、他人の協力を得たりして暮らしている。その際に、他人に動いて貰う権利を数値化し、それをやりとりできるようにしたものがお金だ。「お金(数値)=人を動かす力」と考えると、価値(使用価値でなく交換価値のほうの価値)を労働が反映したものだと考える労働価値説を抵抗なく「まあ、そんなものだろう」と受け入れることができる(あまりにも気楽な理解なので、かのカール・マルクスは不満に思うかもしれないが)。