太平洋戦争が開戦してから今年でちょうど80年。その陰に隠れがちなのが、日中戦争だ。1937年に盧溝橋で日中両軍による散発的な戦闘が始まり、その後、全面戦争へと発展。蒋介石を指導者とする中国国民政府との戦闘終結に向けた話し合いは折り合わず、泥沼の長期戦に突入した。その中で、日本が太平洋戦争を始めたことで、戦争の中心であった中国戦線は、巨大なアジア太平洋戦線の一角の地位にまで成り下がる。日本国民の関心も解決の糸口が見えない日中戦争から、アメリカに勝利することを予感させた太平洋戦争へと向けられていった。

アジア太平洋戦争で亡くなった日本将兵の数は、陸軍183万人、海軍57万人の計240万人。このうち、中国本土で死亡した人数は約46.5万人に上った。一方、1950年の復員調査によると、終戦時に戦地となっていた日本外地に残る旧日本軍の将兵の総数は274.6万人。そのうち中国本土にいた将兵の数は、陸軍が104.9万人、海軍が6.3万人だった。

生き残った日本軍将兵の数が、太平洋戦線に比べて中国戦線では圧倒的に多かったことから、日本海軍は太平洋戦争で負けたが日本陸軍は日中戦争で負けていなかったという言説が今日でも聞かれる。

また終戦時、ソ満国境では、満州に侵攻してきたソ連軍が日本軍を武装解除し、帰国させるとだまして、彼らを鉄道でシベリアへ送った(シベリア抑留)。これと同じく、中国本土でも戦いに勝利した中国軍が日本軍将兵を捕らえて武装解除し、身柄を拘束するなどの措置を採ることも可能だったはずだが、中国本土ではそのようなことが起きなかった。

それはなぜなのか。新著『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』を上梓した広中一成氏が、中国戦線に最初から最後までいた名古屋第3師団の動きを基に解説する。

青天の霹靂だった終戦の知らせ

第3師団の将兵は、終戦をどのように受け止めたのだろうか。8月16日、歩兵第6聯隊速射砲中隊は、以前第11軍司令部のあった岳州にいた。同隊所属の木股喜代治郎によると、この2日前より飛来する敵機から攻撃を受けなくなり、守備をしている日本兵に聞くと戦争が終わったという。

16日早朝、木股ら兵員は洞庭湖を見下ろす丘の上で、聯隊本部に行った中隊幹部の帰りを待っていた。

そのとき、「桂林、柳州の飛行場は既に敵の手中に在り、昼夜を問わず米軍機の来襲は執拗に繰り返えされ、我々の夜行軍と言えども沿道住民の米軍協力に依り決して安全ではなかった。それなのに早朝から飛来する敵機に警戒もせず、丸坊主の草原の丘に集合する事は出来ない筈なのにと思えば、矢張り戦いは終ったのかと思うと、今迄張りつめていた気持ちが一度に抜けてしまい、生い茂る夏草の上に腰を下ろした」(「無条件降伏」、『歩兵第6聯隊速射砲中隊戦史』所収)。

木股は、終戦の知らせを聞くことなく、米軍機の動きの変化から戦争が終わったことを感じ取っていたのである。まもなく、中隊幹部が戻り、木股ら中隊将兵を整列させ、中隊長の合図のもと、日本の方角に向かって最敬礼をし、終戦を迎えた。

8月15日、歩兵第68聯隊は、長江下流に面する江西省九江に到達する。この日、同隊のある兵が九江城内に入ると、出迎えた日本居留民の婦人会の様子がおかしいことに気づく。まもなく、道端で出会った聯隊の将校から日本が降伏したことを知らされたのだ。

兵は、「『馬鹿なことあるものか、敵のデマ放送だろう』と言い返したものの、全身の力が抜けていくような気がしたり、複雑な気持ちが入りまじって、呆然と立ちどまってしまった」(「終戦と復員」、『歩68五中隊戦史』所収)。日本の勝利を信じて、長く中国戦線で戦ってきた彼らにとって、終戦の知らせはまさに青天の霹靂であったのだ。