『失敗の本質』では、「過去の成功体験への過剰適応」という失敗の組織的要因が指摘されているが、これには2つの意味あいがあった。

・日本では失敗を顧みず、フタをしてしまう文化が根強い。

・失敗よりも過去の成功ストーリーにのみ目を向けてしまう。

そのために、創造への転換が起きず、環境変化に適応できない。これは今まで何度も繰り返されてきた基本的パターンだ。

しかし、こういった「失敗」と「イノベーションにおいては失敗を恐れるな」といったときの「失敗」の意味はニュアンスが違うのにお気づきだろうか。

失敗1:工業社会の失敗。確率的に発生するエラーを意味する。エラーを潰すためにPDCAを回そうとする。果ては組織的に隠蔽するなどという副作用まで起こす。あってはならない失敗だ。

失敗2:知識経済社会の失敗。イノベーション、すなわち不断の知識創造が求められ、そこには試行錯誤や紆余曲折、葛藤やあつれきなどによる予測不能な失敗がつきもの。なくてはならない失敗だ。

得てして失敗の話は暗くなりがちだが、多くの場合、日本では失敗1が多いのではないだろうか。

「無明の失敗」から学ぶことはない

さらに、失敗の見方には、次のようなものがある。1つは、無明の失敗だ。

「無明」とは仏教用語で、無知といってもよい。たとえばプロジェクトなどでいえば、はっきりとした目的がない、あるいは目的がコロコロと変わって、手段のみ、ただ目前のタスクを終了させることだけに邁進し(これは人生でも同じだ)、しかも、結果が得られなかったという場合がそうだ。

ある新製品開発プロジェクトが、当初は環境問題のため、そのうち、周年事業のため、だとか、コロコロ変わって何の目的だったかも不明瞭になり、そして最終的に不発だった(顧客が買わなかった)。

もちろん、製品は残された。しかし、それは誰も望まない製品だった。そこで当事者が、それなりに意味があった、成功した、などと事後に自ら吹聴しても、それを誰も成功とは呼ばないだろう。そこから学ぶべきものはない。

しかし、社内の「鳴り物入り」プロジェクトが大きな損害を出しながら、「お釈迦」になるのを少なからず耳にするが、責任は問われないことも少なくない。先述した『失敗の本質』でも、旧日本軍では失敗しても昇進する温情人事がまかり通っていたと指摘されている。これと同じだ。