コロナ禍によって、もともと社会に存在していたさまざまな問題が浮き彫りになりました。権力による人々の監視もその一つです。行きすぎた管理型社会の先には何があるのでしょうか。『ポストコロナの生命哲学』を上梓した生物学者の福岡伸一さん、美学者の伊藤亜紗さん、歴史学者の藤原辰史さんが、それぞれの専門の立場でその危険性について論じます。本稿は同書より一部抜粋・再構成してお届けします。

これは「戦争」なのか?

伊藤:福岡さんは、コロナのパンデミックが始まった非常に早い段階で、生命や生態系の視点から新型コロナウイルスについて論じた文章を新聞に寄稿されていましたよね。

世界中がウイルスを「敵」と捉え、「ウイルスとの戦争」というキーワードが飛び交っていた中で、専門家の立場から「ウイルスは根絶したり撲滅したりすることはできない」と的確に語られていて、「なんて勇気があるんだろう、自分も研究者としてかくありたい」と、とても感動しました。

藤原:まったく同感です。福岡さんがおっしゃるように、新型コロナウイルスの問題は勝ち負け、まして戦争などではありません。たとえ、ワクチンや治療薬が開発され、感染状況が収まっていったとしても、経済格差やコロナ禍による失業などによって生じた苦しみが続く以上、「危機が終わった」と宣言することはできないでしょう。

にもかかわらず、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で「戦争」や「勝つ・負ける」という言葉が為政者たちのあいだで使われたのは、非常に象徴的だったと思います。

福岡:日本も含め、為政者たちは、よく「ウイルスに打ち勝つ」などと言いますね。

藤原:安倍首相(当時)も「今回の新型コロナウイルスに対する闘いは、政府の力だけでは勝利できない」などと述べていましたけれども、とりわけトランプ大統領(当時)の発言からは、「敵」である新型コロナウイルスを打ち負かすという、ある種マッチョな考え方が感じられました。おそらく彼らのような人々には「自分は英雄でありたい」という想いがあるのでしょう。