主要先進国では、公的当局が政策を企画・立案して説明するうえで、経済学がきわめて大きな役割を果たしている。現在のマクロ経済学のモデルでは、モデルの世界に住む人々は基本的に自分の住んでいる世界の経済構造を理解したうえで合理的に行動すると想定されている。ところが、実際の市民は必ずしも合理的期待に沿った行動はしておらず、モデルの示す処方箋に沿った政策は必ずしも期待した結果を生み出してはいない。

そうした現在のメインストリーム(主流派)経済学を「客観的に補完するうえで極めて貴重な知見を提供してくれるのが行動経済学」と語るのが大妻女子大学特任教授の翁邦雄氏だ。では、行動経済学とはどういうものなのか。今回はその知見の1つである「社会規範の重要性」について、翁氏が解説する。

※本稿は『人の心に働きかける経済政策』(岩波新書)から一部抜粋・再構成したものです。

罰金と補助金が強力に作用する前提条件

ヒトが成長していくにつれて学ぶ、合理的な損得計算以上に大切なことの1つは社会規範の尊重であり、人への思いやりや信頼関係を重視することである。人間のなかに自分の利益を最大化させる行動以上に社会規範が重要性をもつことは、ときに経済学者が予想しない結果を招く。

経済学では、政策の中心的ツールは、罰金と補助金である。抑制したい行動には罰金を科し、奨励したい行動には補助金を出す。実際、罰金を科すことで違法駐車はある程度減らすことができるし、現金の代わりにカードやスマホによる決済を奨励したければポイントなどの形でこれらに補助金を出すことが効果的だ。

経済学の常套句である「他の事情にして等しければ」という前提が満たされれば、罰金と補助金は、行動を抑制したり奨励したりするうえで強力に作用するはずだ。しかし、お金を渡したり、もらったりすることはヒトの判断の枠組みに重要な変化をもたらす。それは、他の事情にして等しければ、という前提を破壊してしまう。

そのことをわかりやすく示したのが、イスラエル・ハイファの保育園10カ所で「子どもを迎えに来る保護者の遅刻」という問題に取り組んだ経済学者たちの実験である。この研究結果は、いろいろなところでひとつの解釈に沿って紹介されているが、ここでは、人間がエコン(合理的に満足を最大化しようとする人)であることを前提とした原論文のもうひとつの解釈と対比させて紹介したい。