リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。こうした中で、出版社、編集者、あるいは芸術評論家はより重要な役割を担うことになります。ある小説や映画などが単なる感情操作を意図した作品なのかどうかを判別できる人が本当に必要だからです。

データは金、石油になった

――感情に重きが置かれるようになった責任の一端はSNSにあるかもしれません。イシグロさんご自身は使われますか。

私自身は利用しておらず、オブザーバーという立ち位置ですが、匿名性についてはルールが必要なのでは、と思っています。ほとんどの公共生活がそうであるように、例えば私が新聞に寄稿する場合は実名で書いています。何かについてコメントをする場合は、それに対して責任を持つ、というのは大切なことであり、このことについて改めて考えたほうがいいのではと思います。

ただ、それ以前にインターネットの世界、デジタルの世界の裏にあるビジネスモデルの変革について、社会全体で見る必要があると思います。かつては、モノを作ったら、それに対してお金を払う、というビジネスモデルでしたが、そういうやりとりとはまったく違う新たなビジネスモデルが生まれています。

例えば今インタビューに使っているズームだったり、検索エンジンだったり、いまはさまざまなすばらしいモノが無料で使えるようになりました。こうしたビジネスにとっては、データが金であり、石油であるわけです。

旧来型のビジネスであれば、反トラスト法などが独占などを防ぐ手段でしたが、非常にパワフルな企業がまったく違うスタイルのビジネスを行っているのであれば、それに対して私たちが何をできるのかを考えなければいけません。

『クララとお日さま』の背景にも世の中のデジタル化によるチャレンジがあります。しかし、ここで言いたいのは私たちの生活において非常にパワフルな影響を持つようになった大企業とどう対峙するかではなく、データやアルゴリズムが力を持ち、AIや遺伝子操作の進歩が進むことが、個人の生活にどう影響するのか、ということです。

他者の存在を一連のアルゴリズム、すなわちその人間が何を望み、何を買いたいと思い、何をおそれるのか、といったことを正確に予測できると仮定した世界において、それは他者に対する私の見方を変えるのか。そういう世界においては、妻や娘など人間を愛するという概念や、その意味するところも変わり始めるのか。そして、これによって私たち人間の関係性が根本から変わるのか……。