日本の古典文学というと、学校の授業で習う苦痛な古典文法、謎の助動詞活用、よくわからない和歌……といったネガティブなイメージを持っている人は少なくないかもしれませんが、その真の姿は「誰もがそのタイトルを知っている、メジャーなエンターテインメント」です。

学校の授業では教えてもらえない名著の面白さに迫る連載『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』(毎週配信)の第9回は、『源氏物語』の作者で、2024年のNHK大河ドラマの主人公でもある紫式部の『紫式部日記』について解説します。

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辛辣!紫式部のあまりに現代的な感性

前回記事(『どちらに共感?「紫式部と清少納言」真逆の仕事観』)で、「紫式部と清少納言は仕事への姿勢がかなり異なっていたらしい」と書いた。紫式部と清少納言といえば、もっとも有名なのは、『紫式部日記』で紫式部が清少納言を批判したエピソードではないだろうか。紫式部が清少納言の悪口を書いていた、というあのうわさのことだ。

では、紫式部が清少納言をどのように批判していたのか。うわさの真偽を確かめるべく、実際に原文を見てみよう。

<原文>
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

(※以下、原文はすべて『紫式部日記 現代語訳付き』(紫式部、山本淳子訳注、角川ソフィア文庫、KADOKAWA、2010年)による)

<筆者意訳>清少納言さんは、ふふんと得意げな顔して、文章のなかに漢字を使いまくっていた。けれど書かれたものを読むと、漢文の知識はまだまだ未熟。あんなふうに「人と違うんですよ、私は」と思い込んでいる人って、絶対に周りと比べて見劣りするようになるはず。一時期の調子はよくてもその先は続かない。

感性を売りにする人って、ぶっちゃけ普通のことにも「素敵!」「感動!」「最高!」って騒ぐから、結局中身のない人間になっちゃう。そんでその先どうするの、ってはたから見てると思うけど。

……辛辣!! 想像以上の辛辣さではないだろうか。

現代に置き換えると、人気の売れっ子インフルエンサー作家に「あの人って感性に頼ってポエムばっかり書いて、なんでもかんでも最高って言うけど、それって今はよくてもこの先は続かなくない?」と言っているようなものだ。すごい切れ味の悪口である。

とくに「人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば」の箇所。つまり「自分は人と違うんだと思い込んでいる人って、そうじゃない人と比べて絶対に将来ダメになる」という意味だ。

いやはや、あまりに現代的な感性で、本当に1000年前に書かれた日記なんだろうか……?と疑ってしまう。今のSNSにも散々書かれてそうな作家批判である。

『枕草子』は今でこそ名作古典文学の扱いだが、紫式部の手にかかれば、「なんでも素敵!って書いてある軽薄な文学」と評してあるのは、ちょっと面白すぎやしないか。悪口を書くにしてもキレキレである。