NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第9回は、紫式部が歌の才能をほめた和泉式部を紹介する。

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和歌より漢詩が重視されていた

「このぐらいの漢詩を作ったならば、もっと名が上がっただろうに。残念だったことだなあ」

和歌・漢詩・管弦のいずれにも秀でた藤原公任(きんとう)は、藤原道長が催した舟遊びのイベントで「漢詩が得意な人の船」ではなく「和歌が得意な人の船」に乗ったことを後悔したという。『大鏡』でつづられているエピソードだ(過去記事「「道長が対抗心むき出し」藤原公任の溢れ出す才能」)。

といっても、何も和歌で失敗したわけではない。その逆で、船の上で作った和歌の出来があまりによかったために、「同じレベルのものを漢詩で作っておけば、もっと高く評価されたのに……」と公任は残念がったのである。

平安時代においては、和歌よりも漢詩のほうが、男性の教養として重要視されていた。当時の公文書や学術書も、漢文によって書かれている。