地上戦で攻守にわたり主力となる戦車は、対抗するにもやはり戦車が必要となるものです。その戦車対戦車という構図は、最初の戦車が戦場に登場したわずか1年半後に現実のものとなりました。史上初の戦車戦の顛末を追います。

戦車の登場から1年半 ついに戦車どうしの戦闘が発生

 ロシアのウクライナ侵攻で、戦車は対戦車ミサイルやドローンの「やられ役」のように見られていましたが、それは切り取られたワンシーンだけの印象といえるでしょう。実際には、攻めるにしろ守るにしろ戦局を動かすには戦車が必須で、そして戦車に対抗するには戦車が有効というのは第1次世界大戦で既に認識されていました。

 最初の実用戦車であるイギリスのひし形戦車「マークI」が戦場に登場したのは、1916(大正5)年9月15日のことです。この最初の戦車の任務は塹壕戦における歩兵突撃の援護で、敵戦車と戦うことは想定されていませんでした。またその登場はインパクトがあったものの、無敵というわけではなく、故障も多くて信頼性が低いものでした。

 ドイツでも戦前から戦車のアイデアはありましたが、陸軍は関心を示していませんでした。しかしマークIの登場を受けてか戦車の開発へ本格的に乗り出し、1918(大正7)年3月21日にドイツ戦車「A7V」が戦場に現れます。イギリス戦車に対抗できるよう、装甲を貫通する徹甲弾も用意されていました。

 もっとも、当時のドイツの戦車戦力はA7Vが約20両と、捕獲したイギリスのひし形戦車を入れても約100両しかありません。戦車同士が遭遇する機会はないと思われていたようで、戦車戦の訓練も行われていませんでした。

 しかし世界最初の戦車戦は、A7V登場のわずか1か月後である1918年4月24日に起こっています。

「世界初の戦車戦」はいわゆる遭遇戦だった

 1918年4月24日、ドイツ軍はフランス北部のアミアン近郊、ヴィレ=ブルトヌーを攻撃する3個の歩兵師団を掩護するため、A7Vを15両、投入しました。試作車や改造車を除いたA7Vの総生産台数は20両でしたので、ほぼ全力投入でした。

 作戦開始前に2両が故障で脱落し、13両が前進、そしてその内の3両「メフィスト号(506号車)」「エルフリーデ号(542号車)」「ニクス号(561号車)」が、イギリス軍のひし形戦車「マークIV」3両と遭遇します。マークIVの内訳は、1両が57mm砲搭載の雄型、2両が機銃のみ搭載の雌型でした。

 雌型「マークIV」の機銃ではA7Vに効果はなく、A7Vの徹甲弾で2両とも損傷を受けて退却を余儀なくされ、そして残った雄型1両が奮戦します。当時の戦車はまともなサスペンションもなく、低速とはいえ移動目標に照準するのは難しくて停止しての射撃しかできず、加えて車長と操縦手、砲手間の意思疎通も不自由でしたので動きは緩慢でした。

 両軍とも初めての戦車戦ということで混乱したようですが、戦車の扱いにはイギリス軍に一日の長があったようで、マークIVが移動と停止を繰り返しながらA7V「ニクス号」に57mm砲弾3発を命中させたのは大したものです。砲弾は榴弾でしたので装甲を破ることはできなかったものの、3発も命中弾を受けた「ニクス号」は慌てて操縦を誤り行動不能となり、乗員は戦車を放棄して逃げ出します。他の2両も連携を取れないまま混乱して後退してしまいます。

 また同日、別の場所でA7V「ジークフリート号(525号車)」がイギリス軍の「マークAホイペット」戦車7両と遭遇します。「ホイペット」の武装は機銃のみでA7Vに抗しえず、1両が57mm砲で撃破され、他3両がドイツ軍砲兵の直接射撃で撃破されています。こちらはA7Vの完勝です。

「世界初の戦車戦」のその後

 1918年4月24日に発生した世界最初の戦車戦で、マークIVによって撃破されたA7Vはありませんでしたが、「メフィスト号(506号車)」が故障放棄となり、後にオーストラリア軍によって回収され、現在もブリスベーンのクイーンズランド博物館にて展示される唯一、現存する車輌となっています。

 また、「エルフリーデ号(542号車)」が操縦ミスで転覆放棄、後にイギリス軍によって回収されて調査分析されます。前述した、被弾により乗員退避となった「ニクス号(561号車)」は、ドイツ軍が回収を試みるも故障で動けず爆破処理ということになりました。ドイツ軍戦車の損害は戦闘によるものではなく、すべて放棄でした。

 イギリス軍が回収した「エルフリーデ号(542号車)」は連合国で徹底的に調査されました。このことから、連合国の文献ではA7Vを「エルフリーデ型戦車」と表記していることがあります。

 そのA7V調査報告では、前面、背面、側面の装甲は英仏の戦車より厚いものの、上部のエンジン排気グリルが弱点とされています。また、車体各所の主砲架、機銃座、視察窓などに隙間が多く、弾の破片が飛び込む可能性があるとも。加えて、最低地上高が低くて走破性が悪く、トップヘビーで転覆しやすいと指摘されています。さらに、操縦の難しさや劣悪な居住性など、イギリスやフランスの戦車の設計ミスや欠陥をドイツ戦車もそのまま繰り返している、と総括されています。

 1918年4月24日の会戦で、戦車は歩兵掩護だけでなく、有効な対戦車兵器になるということも示しました。もっとも第1次世界大戦では以降、戦車戦は起きず、戦車における対戦車能力の重要性は必ずしも明確になりませんでした。戦間期の戦車開発も、相変わらず塹壕戦における歩兵掩護の発想で進められました。

 しかし技術と戦術の進歩で戦車の衝撃力はずっと大きくなり、戦車に対抗するには戦車が必要と再認識されるのは、第2次世界大戦が始まってしばらく経ってからです。