下村獣医師から、ダートムーアとスパツィアーレの動画が送られてきました。僕が足を骨折したばかりに、もうかれこれ3か月も彼らに会いに行けておらず、代わりに下村さんが様子を見に行ってくれたのです。僕はまるで単身赴任先で会えない子どもの動画を観る父親のように、スマホの画面に食らいつきました。ちなみに、下村獣医師のことを僕たちは略してシモジュウと呼びます。ここから先は愛情を込めてシモジュウと呼ばせてもらいます。

ダートムーアの娘は「のんびりすくすくと育っていますね」とシモジュウはコメントしてくれました。動画を見るとほんとうにのんびりと立っていて、ほとんど身動きしていません。競走馬として大丈夫なんかいと心配して、あとで慈さんに尋ねてみると、「スイッチが入ったときはいきなり動きますから、オンとオフがはっきりしていて問題ないですよ」と言ってくれました。母ダートムーアも大人しい馬ですが、レース中には他馬を噛みに行く仕草を見せたりしていましたので、怒らせたら怖いタイプですね。リラックスするところではして、走るときは我を忘れて走ることは、競走馬として大事な資質ですね。

スパツィアーレの息子は「立派な当歳馬です」とシモジュウは評価してくれました。3カ月前は手脚ばかりがひょろりと長くて、頼りなさがありましたが、少しずつ馬体も成長してバランスが取れてきたようです。このまま行くと、母や姉たちを凌ぐ大きな馬になるのではないでしょうか。放牧地に入ると、途端に全速力で走り出す姿にはさすが男の子という逞しさを感じました。ダートムーアの娘とは対照的です。

スパツィアーレの息子は鹿毛でもなく芦毛でもないその中間ぐらいの珍しい毛色をしていて、それだけで目立つのですが、これは産まれてすぐの時期だけのもので、生え変わったときには母と同じような黒鹿毛になるはずですとのこと。ぬいぐるみのような可愛い毛色のままでいてほしいという想いはありましたが、そういうものなのですね。

そういえば、シモジュウが大狩部牧場の代表に就任しました。詳しいことは分かりませんが、彼が牧場を丸ごと買い取るという形になるそうです。社台ファームを辞めて、しばらくゆっくりしてから次のことを考えたらいいねと話していた矢先ですから、絶妙なタイミングで話が転がり込んできたのでしょう。もともと大狩部牧場の元社長と懇意にしており、配合などの相談も受けていたからこその抜擢だと思いますが、彼ほど牧場主に相応しい人間もそうはいませんから適材適所です。馬という生き物に詳しくて、競馬が大好き。こんな人物を周りが放っておくはずがありません。

彼の牧場の現状や未来のビジョンを聞きながら、不受胎馬の話になりました。スパツィアーレが5回目の種付けに行ってきたところで、今回がラストにしようと思っていると話すと、「うちにも受胎していない繁殖牝馬が数頭いて、まだこれから行きますよ」とあっさりと言い切ってくれました。たしかに1歳時のセリにおいては、早生まれであればあるほど馬体が大きく見栄えするので高く売れやすいです。ただ、少しでも高く売るということにフォーカスしなければ、遅生まれにもメリットはあるとのこと。

1月や2月に北海道で生を授かったサラブレッドは、外に出て動き回るようになる頃には、まだ脚元には雪が残っており、ときには雪解けして凍っていたりすると滑りやすく、思う存分に身体を動かせない日々が続きます。ところが4月にもなると、その年によってはもう草が生えてきて、クッションの利いた柔らかい地面の上を思い切って走り回ることができるようになります。特に母馬も走るようになるので、それについて行く仔馬の運動量も増えます。それぐらいの時期に生まれてきた方が、サラブレッドとしてスムーズな成長過程をたどることができる。昔はそのように考えられていましたので、過去の名馬の生年月日を調べてみると、3月や4月以降生まれが多いのです。

セリでいかに高く売るかが最大の目的となると、1日も早く産んで、翌年の7月のセリの時点で馬体が大きく、筋肉がしっかりついて、骨格がしっかりとした、最近の言葉でいうと、映(ば)える馬を生産者はつくりたくなります。本来は走る馬をつくりたかったのに、実質の運動量や成長曲線ではなく、見た目の良さを重要視するようになり、セリで高く売ることに自己目的化していくことになります。誰かがそうし始めると、自分だけ遅生まれの見栄えがしない馬をつくるわけにもいかず(セリで売れなくなってしまうから)、必然的に早生まれ競走は過熱していくのです。一度回り始めた歯車はなかなか元には戻りません。

サラブレッドは本来、暖かくなる春に子どもを産むものです。自然の摂理と言っても過言ではありません。そこを早生まれの馬をつくりたいがために、人為的にライトコントロール(馬房内に 電球を照らして人工的に明期を長くする方法)をしてみたり、ホルモンを促進する薬を投与したりすることで、早く受胎させて早く産ませることに成功してきました。ただし、自然の摂理に反すると弊害が生じる恐れもあるのかもしれません。人工的に早く産ませることをしていない大狩部牧場の馬たちは、生まれてきたときに脚元に不安のある馬がほとんどいないことに驚いたとシモジュウは言います。

大狩部牧場のように、セリに出す前に庭先で買ってくれるオーナーと結ばれていると、セリのために馬をつくる必要はあまりなくなります。その馬の競走生活を長い目で見て、生産を行うことができるのです。とはいえ、どこどこ牧場の馬であれば毎年1頭は買いたいと言ってくれるオーナーがごまんといるわけではありません。中小の生産牧場はどうしても、セリで馬を売って、1年間の生活費を稼がなければならないからこそ、この早生まれラットレースから逃れることはなかなかできそうもないのです。

(次回へ続く→)

著者:治郎丸敬之