「努力なくして成功無し、努力に勝る天才無し」

 出来るだけ楽に生きていこうとする怠け者の私には、耳の痛い言葉である。

1992年の私は、本社の広告宣伝部へ異動になって3年目。担当する業務の難易度がどんどん高まり、1週間8時間×5日勤務では追いつかない位になっていた頃だった。当然、定時を過ぎても残業が当たり前の状態で、ともすれば休日の土曜日も出勤して残務処理に当たる。

当時の私はまだまだ遊びたい盛り。しかし、周りの先輩社員たちがこんな業務サイクルで普通に勤務している中、「帰りたい」とか「休みたい」とかは口が裂けても言えない環境だった。それでも先輩たちは、楽しそうに理想のプロモーション論を語り、競合の広告分析で盛り上がっていた。夜の11時に業務が終わり、そこから飲みに行く驚異のパワーに辟易しながらも、「タダで酒が飲める魅力」に負けていつも付いて行く。ただ、酒の席では仕事の話は御法度、プロ野球の話や諸々の噂話で盛り上がる。競馬好きの先輩も多く、春と秋は競馬話の比率も高まった。

…仕事に追われ出すと、打ち込む熱意も薄れてしまう。希望して念願の部署に異動できたにもかかわらず、「流し仕事」で業務をこなす悪癖が出てきた。当然、チェック漏れによるミスや中途半端なプロモーションを産み出す事となり、先輩たちに助けてもらう事も多々あった。

 自分は本当にこの仕事に向いているのだろうか?

 広告制作に対する能力も発想センスも無いのではないだろうか?

 そんな自問自答と戦いながら日々の業務に向き合っていた頃、一頭の栗毛の牡馬と出会った。

父マグニチュード、母カツミエコー(母の父シャレード)門別の原口牧場で1989年に誕生したミホノブルボンである。

 80年代後半〜90年代前半といえばノーザンテースト産駒が中央競馬を席巻していた時代。マグニチュード産駒の活躍に期待する層はそんなに多くは無かったはずだ。母カツミエコーも南関東で走っていた馬、ダート短距離としての期待値750万円が取引価格となり、栗東の戸山為夫厩舎に所属する事となった。

「坂路の申し子」の誕生

 栗東トレーニングセンターに坂路コースが完成したのは1985年。戸山為夫調教師は坂路を完成当初から積極的に活用して、所属馬を鍛えていた。ミホノブルボンも、戸山流坂路スパルタ教育を入厩直後からたっぷり受ける事となり、驚異の4回登坂(他厩舎は3回登坂)メニューをこなしていた。

 ミホノブルボンが話題に取り上げられたのは、デビュー前の夏。古馬オープン馬と変わらないタイムで登坂した事がニュースとなった。

「戸山厩舎の3歳(現2歳)に、とんでもないやつがいる」

 注目の関西3歳新馬として、ネット拡散が無い時代にも関わらず、関東でも彼の名を耳にするようになった。

噂のミホノブルボンがベールを脱いだのは、1991年9月の中京新馬戦(芝1000m)。戸山調教師も血統的に短距離と見ていたのだろうか、1000mからのスタートとなったミホノブルボンは、単勝1倍台の支持を得てゲートインする。出遅れ気味のスタートから前半は後方追走という後手を踏む。鞍上の小島貞広騎手はミホノブルボンの力を信じて、慌てる事なく追走し、残り50mで軽快に逃げるホウエイセイコーを捉えると、1馬身1/4の差をつけて優勝した。勝ちタイム58秒1は3歳のコースレコードで、彼の上がり3F は33秒1という驚異的なタイム。坂路調教が産み出した化け物登場! と、スポーツ各紙の記事も盛り上がった。

 2ヶ月の休養をはさんでマイルの条件戦に登場したミホノブルボンは、危なげなく二番手追走から直線で抜け出し、6馬身差で圧勝する。

 この時、府中で初めてミホノブルボンを見た私の感想は、「オープンに行ってからマイル以上の距離で持つのかな」ということ。ムキムキのスプリンター体型の馬というのが正直なところ。府中の2400mで今日のようなレースができるイメージは湧かなかった。

 更にミホノブルボンの距離適応への不安は、早くも3戦目のG1・朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)で露見したかのように見えた。

 圧倒的な1番人気に支持されゲートインしたミホノブルボンは、スタートすると逃げるマイネルアーサーを執拗に追いかけてしまう。直線に入ってもマイネルアーサーを捕まえるのに苦労し、ラスト200mでようやく振り切ったかと思えば外からヤマニンミラクルの強襲に遭う。結局ハナ差の辛勝でG1制覇となったものの、この先2000m以上の距離で戦うには不安が付き纏う勝利だった。

 いくら坂路で鍛えたといっても、元来向いていない距離を克服する事など夢物語。体型も血統もスプリンターのミホノブルボンがいくらがんばっても、距離の壁を越えることは不可能なはずだ。

「適材適所」

「やはり野に置け蓮華草」

一方で、まじめに努力もせず、「能力の壁」を自ら作る私に刺激を与えて欲しい…。ミホノブルボンの「距離の壁」への挑戦を、秘かに応援している私がいた。

「努力は実るもの」を実証したミホノブルボン

 ミホノブルボンの日々の鍛錬、努力はホンモノだった。

 4歳初戦となったスプリングステークス、クラッシック第1弾皐月賞は、懸念された「距離の壁」を微塵も感じさせない圧勝劇を私に見せてくれる。

 小雨の中、ミホノブルボンにとって初めての重馬場となるスプリングステークス。距離不安から敬遠され、初めて2番人気(4.5倍)となったものの、3歳時とは走りの違う成長力を見せた。

 1番ゲートから、飛び出したミホノブルボンは先手を奪う。スタートからの3Fを36.3秒の速いラップを刻み、軽快に飛ばす。二番手を追走していたサクラバクシンオーが次第についていけなくなり失速。暮れのエリカ賞、ラジオたんぱ杯3歳S(共に2000m)を連勝している1番人気ノーザンコンダクトにとっては、願ってもない展開。しかし、ミホノブルボンの逃げ脚は衰えることなく、気持ち良さそうに直線を駆けて行く。結局2着のマーメイドタバンに7馬身の差をつけて圧勝した。

 皐月賞は逃げ脚に磨きが更にかかり、ミホノブルボンは2000mの壁を突破する。

朝から曇天の中山競馬場は、午後のレースが始まる頃には本降りとなり、発走時間のころには向正面が見えにくくなるくらい雨で霞み出す。

 4番枠のミホノブルボンは、雨の中でも落ち着いていた。ゲートが開くと、勢いよく飛び出し、内枠を利して先頭に立つ。二番手から絡んでくるクリトライ、リワードガルソンを従え、馬体を併せることなく先頭で向正面に入る。3コーナーを回る頃にはセキテイリュウオー、ダッシュフドーも二番手争いに加わるが、ミホノブルボンとの差は広がって行くばかり。

 私が見ていた直線の入り口付近で、ラストスパートに入ったミホノブルボン。一瞬、小島貞博騎手が、外から来る馬の脚色を確認するように振り返ったようにも見えた。私の前からゴールに向けて駆けて行ったミホノブルボンの脚は、未知の距離、1800mを過ぎても衰えない。むしろ差が広がっている様子がターフビジョンから窺える。

 雨で霞むターフビジョンにゴールするミホノブルボンが映し出された時、私はびしょ濡れになって拍手していた。私自身がミホノブルボンの快走を見届けて、吹っ切れたような気持になっている。

 

「日々の努力はするもんやなぁ…」

明日から仕事へ向き合い方が変わるような気がして、私は雨の中で、いつまでも表彰式を見ていた。

ミホノブルボンの「夢への挑戦」

 ミホノブルボンが、400mの壁を打ち破るかが焦点となった1992年の東京優駿。

 出走に際して、戸山調教師が坂路調教の4回登坂を5回にするというニュースが飛び出し、それにより脚部不安が発生したとか、話題はミホノブルボン一色になりつつあった。

 府中の直線の坂の下でミホノブルボンの脚色はどうか?

 ミホノブルボンの逃げに鈴をつけに行く玉砕馬が登場するか?

 ミホノブルボンの「最後の400m」を巡る議論が、東京優駿の予想の全てと言っても良いくらい注目された。

 1年に1度の競馬の祭典、1992年の東京優駿は5月31日、快晴良馬場での開催となった。

 ミホノブルボンを取り巻く有力馬も虎視眈々。

 皐月賞で2着だったナリタタイセイは、ダービートライアルのG2NHK杯(当時)に出走し、1番人気に応えて優勝。2着マチカネタンホイザ、3着サクラセカイオー、4着ゴッドマウンテンも東京優駿へ駒を進める。当時オープン特別だった青葉賞で3連勝を飾ったゴールデンゼウス。シンザン記念優勝の芦毛馬、マヤノペトリュースも田原騎手の騎乗で人気上位に名を連ねる。

 ミホノブルボンは、2.3倍の1番人気。ただ、逃げ馬として内の偶数枠を望んでいた陣営にとって、7枠15番という外の奇数枠は大きな試練とも言えた。ミホノブルボンが機嫌よくゲートインし、出遅れることなく飛び出していくこと。「最後の400m」を克服するために仕上げて来た関係者たちの最後の願いとなったはずだ。

ミホノブルボンは、その不安を払拭するスタートを切った。

ロケットスタートに成功したミホノブルボンは、内に進路を変えて強引に先頭に立とうとする。内のマーメードタバン、ライスシャワーが先頭を主張するも、ミホノブルボンはねじ伏せるように先頭に立ち、1周目のゴール板を通過する。16番人気のライスシャワーが、ミホノブルボンに並びかけようとするが、スピードの絶対値が違うのか追いつかない。18頭は、私のダービー観戦ポジションでカメラを構えている前を通り過ぎていく。

 1コーナーを回るとミホノブルボンが差を広げ始め、2コーナーカーブで独走状態となった。2番人気のナリタタイセイは第3集団、内にウイッシュドリームを従えている。

 向正面に入り、1000mの通過が61秒、ミホノブルボンのペースでレースが進む。鍛えあげられたペース配分で、自己との戦いに入るミホノブルボン。私が見ている位置から最も遠い大欅を過ぎても、正確なラップを刻んでいるようにターフビジョン越しに見える。3コーナーの下りで少しずつ差が詰まってきたものの、ミホノブルボンのペースが落ちて来たわけではないはずだ。執拗に追いかけてくるライスシャワー、後方から内を突いて一気に伸びて来た田原騎乗のマヤノペトリュースが不気味な存在。

 「あと600m、踏ん張れ!」

逃げるミホノブルボンに夢を託し、努力が実ることを信じている私の声が聞こえるだろうか…。

ミホノブルボン「最後の400m」

 4コーナーを回り直線に入る18頭。差は詰められながらも、快調に飛ばすミホノブルボン、2馬身のリードを保っている。ライスシャワーが食らいつき、内からマーメードタバン、外からマヤノペトリュース、ナリタタイセイがラストスパートに入る。サクラセカイオーは後方でもがいている。

残り200m、坂を登り切ってミホノブルボンが突き放す。ライスシャワーとの差がみるみる広がって行く。4馬身、5馬身…。独走態勢に入るミホノブルボン。マヤノペトリュースが猛然と追い上げてきたものの、遥か先にミホノブルボンの姿。

 残り100m。独走態勢に入ったミホノブルボンは、とてつもない強さで私のカメラに近づいて来る。それは、戸山調教師の「鍛えて馬を強くする方針」が、結実する瞬間でもあった。

 ミホノブルボンは圧勝で、2400mを走り切った。

 ウイニングランでミホノブルボンと小島貞博騎手が戻って来る。私の前を通過するミホノブルボンは、誇らしげに堂々としていた。3歳時にパドックで見たスプリンターの面影は消え、2400mを軽く逃げ切った中距離の快速馬の風格さえ漂う。

 私は、涙が出るほど嬉しかった。そして、ウイナーズサークルに戻って行くミホノブルボンをいつまでも拍手で称えていた。

鍛えて最強馬を作る

戸山為夫調教師の著書「鍛えて最強馬を作る」の中で、戸山調教師の「強い馬」の定義が記されている。

本当の意味で「強い馬」というのは、三冠をとれる馬、オールマイティの馬をいうのである。私はミホノブルボンを鍛えることによって、それを実現したかった

──「鍛えて最強馬を作る」 第1章「三冠への挑戦」より引用

三冠がかかっているから菊花賞に挑戦したのではなく、ミホノブルボンが強い馬であることを証明するための菊花賞挑戦だったということを、後日著書を読み知ることとなった。

 当時は、ミホノブルボンの菊花賞挑戦はいくらなんでも無謀だと思っていた。無敗の二冠馬とはいえ、馬の適性を見て別路線を選ぶ勇気こそ、真の強い馬を育てる判断ではないのかと思ったりもしていた。だから、菊花賞でステイヤーのライスシャワーに敗れた時、悔しさよりも残念な気持ちでいっぱいだった。

菊花賞後、ミホノブルボンは再びレースに復帰することは無く、1994年1月に引退が発表された。

可能であれば、2400mの挑戦が東京優駿だけでなく、あと何回か走って欲しかったなと、今でも思っている。ミホノブルボンなら、再び圧勝してくれたはずだ。


超一流の血統でなくても、高額の馬でなくても、努力と技術によって磨き上げれば、「強い馬」に育てることができるはずだ

──出典・同

戸山調教師の著書にあるこのフレーズが、今の私を創ってくれたと思っている。

Photo by I.Natsume

著者:夏目 伊知郎