2024年は阪神競馬場リフレッシュ工事に伴う開催日割の変更のため、京都競馬場で行われる宝塚記念。宝塚記念が京都競馬場で開催されたことは、過去に7度ある。

京都競馬場で宝塚記念が最初に行われたのが1966年の宝塚記念であった。勝ったのは牝馬のエイトクラウン。エイトクラウン以降、牝馬による宝塚記念制覇は2005年のスイープトウショウまで無かった。また、エイトクラウンは繫殖牝馬としても優れており、1975年の宝塚記念を制したナオキなどを送り出す。エイトクラウンとナオキの母子制覇は、宝塚記念史上における唯一の母子制覇である。

1969年の宝塚記念も京都競馬場で開催。この年は、珍しい事が発生した。なんと、出走馬が僅か4頭であったのである。その歴史的な少頭数の一戦を制したのは、ダテホーライ。菊花賞2着などの実績を持った馬が念願のビッグタイトルを獲得した。

そしてダテホーライの宝塚記念から6年が経過した1974年、昭和の競馬ブームを巻き起こした怪物が京都競馬場で強さを見せた──。

今回は、京都競馬場で開催された宝塚記念を制した名馬たちを振り返る。

ハイセイコー(1974年)

オグリキャップやディープインパクトなど、普段は競馬をしない人でも知っているようなアイドルホースたち。その1頭であるハイセイコーは、当時、後のオグリキャップやディープインパクトよりも大きな社会現象を巻き起こしたと元祖アイドルホースと考えるファンも多い。なんと、「東京都 ハイセイコー様」と書けば、東京競馬場にあった鈴木勝太郎厩舎に届いたという逸話すらある。週刊少年マガジンの表紙を飾るなど、競馬を日常の家庭に広めた馬でもあった。

地方の大井競馬でデビューしたハイセイコーは、皐月賞や中山記念といった中距離のレースでは強い競馬を見せていた。しかし、当時のG1級レースは2400m以上の長距離のレースが多く、その距離では3歳(1973年)の日本ダービー3着、菊花賞2着、有馬記念3着と惜敗続きであった。そして4歳(1974年)の天皇賞・春ではライバルのタケホープの6着に終わった。

天皇賞・春の次走は、自身が得意とする中距離の宝塚記念であったが、ハイセイコーは初めて単勝1番人気にならなかった。ハイセイコーにかわって1番人気になったのは、前年の有馬記念を制し天皇賞・春でも2着に入ったストロングエイトであった。

レースは、インターベルトが逃げてハイセイコーは2番手に付き、ストロングエイトは5番手に付ける展開。直線で伸び悩むストロングエイトとは対照的に、ハイセイコーは早くに先頭に立つとほのままリードを広げ、2着のクリオンワードに5馬身差を付ける圧勝を成し遂げた。走破タイムの2分12秒9は、当時のレコードタイム。どんどんと後続に差を広げるハイセイコーの走りに、京都競馬場のファンからは歓声が上がった。これが関西のレースで初勝利となるハイセイコー。実況を担当した関西テレビの杉本清アナウンサーも「関西のお客さんも満足!!!」と実況した。

メジロライアン(1991年)

ハイセイコーの宝塚記念から2年後の1976年の宝塚記念。こちらは前年の天皇賞・秋(当時は芝3200m)を制し、のちに海外遠征をしたフジノパーシアが、得意の重馬場の中でのレースを制した。これ以後は1980年に中京競馬場で行われた以外は阪神競馬場で開催された。

1990年の宝塚記念の後、阪神競馬場がリフレッシュ工事のため競馬の開催は中断。1991年の宝塚記念は1976年以来の京都競馬場での開催となった。

オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの「平成三強」が引退し、1991年の天皇賞・春はメジロマックイーン、メジロライアン、そしてホワイトストーンの3頭が「新三強」と言われた時代。事実、天皇賞・春はこの3頭に単枠指定(特に人気が集中しそうな時、その馬を単枠=1枠1頭に指定する制度。1991年9月まで導入)されたが、メジロマックイーンが快勝。メジロライアンは4着、ホワイトストーンは6着に終わった。そして宝塚記念は、メジロマックイーンだけが単枠指定となった。単勝オッズもメジロマックイーンが1.4倍と抜けており、メジロライアンが4.1倍、ホワイトストーンが4.7倍と続いた。

ゲートが開くと3歳馬のイイデサターンが逃げ、ホワイトストーンが2番手と続く。メジロマックイーンは4番手、メジロライアンは中団でレースが始まった。しかし、1コーナーから2コーナーにかけて、他の馬と接触し、行きたがる素振りを見せたメジロライアン。騎乗した横山典弘騎手は、馬を抑えこもうとはせず、バックストレッチに差し掛かるところでは3番手まで上がって来た。

残り800mの標識を過ぎ、3コーナーの坂を下るところでメジロライアンが先頭に立つ。ホワイトストーンが2番手、メジロマックイーンも徐々に進出した。最後の直線、横山典弘騎手はメジロライアンを馬場の良い真ん中に進路を取る。こうなるとメジロマックイーンは外を回さらざるを得ない。終わってみればメジロライアンはメジロマックイーンに1馬身1/2差を付けて先頭でゴールした。

ウイニングランを済ませるメジロライアンと横山典弘騎手。横山典弘騎手はヘルメットをとってスタンドに一礼をした。父の横山富雄元騎手は1971年にメジロムサシで勝利。奇しくも1971年の宝塚記念2着はメジロマックイーンの祖父メジロアサマであった。その時以来のメジロ軍団による宝塚記念ワンツーフィニッシュであった。

ダンツシアトル(1995年)

1995年1月17日5時46分。淡路島を震源地とする兵庫県南部地震(通称:阪神・淡路大震災)が発生した。

この地震で1月21日と22日に行われる予定であった京都競馬が中止となる。そして宝塚市にある阪神競馬場は甚大な被害を受け、競馬の開催が困難になっていた。当初予定されていた阪神競馬の開催日程を京都競馬と中京競馬に振り替え、1月の2日間に行われる予定だった京都競馬の代替として6月3日と4日に「震災復興支援競走」を開催。当初は6月11日に開催予定だった宝塚記念も、6月4日に前倒しとなり、京都競馬場で行われる事となった。

出走メンバーも豪華で、この年の天皇賞・春を制したライスシャワーや前年の天皇賞・秋を制したネーハイシーザーなどが出走。ただ、1番人気に支持されたのはG1レース未勝利馬のサクラチトセオー。単勝オッズは4.4倍と圧倒的な支持ではなく、5番人気のタイキブリザードまで単勝オッズが10倍以下の混戦ムードであった。

前日に行われた阪急杯で芝1400mのコースレコードをマークするなど高速馬場となった京都競馬場。レースはトーヨーリファールが逃げ、2番手にタイキブリザードとダンツシアトル、それにネーハイシーザーが前を見る展開でレースは進む。

そして悲劇は第3コーナーで起こった。ライスシャワーが躓き、騎乗した的場均騎手が落馬したのである。悲鳴に近い声が京都競馬場のスタンドから上がる中、16頭が最後の直線に入った。トーヨーリファールのインコースから上がって来たダンツシアトルが抜け出し、タイキブリザードの強襲をクビ差凌ぎ切った。走破タイムの2分10秒2は芝2200mの日本レコードだった。

翌日のスポーツ新聞は1面でライスシャワーの悲劇を報道した。

勝ち馬のダンツシアトルは、父が米国牡馬クラシック三冠を無敗で制したシアトルスルーという血統。生まれつき脚が外向していたため強い調教が積めなかったという。さらに骨折や屈腱炎により長期の離脱もあり、5歳の3月に1500万下(現在の3勝クラス)から再スタートを切った。そこから重賞の京阪杯(当時は宝塚記念の前哨戦として芝2000mで開催)を含め4戦3勝と本格化した中で臨んだ宝塚記念。ベテランの村本善之騎手の好リードもあり、悲願のG1ホースとなった。

ディープインパクト(2006年)

2006年4月の第2回阪神競馬開催終了後、芝コースの外回りコース設置等のコース改修工事を実施。そのため、この年の宝塚記念は京都競馬場で行われる事となった。

この年の宝塚記念は、ディープインパクトがどんなレースをするのかが注目された。前年の牡馬クラシック三冠馬であり、この年の天皇賞・春を圧勝したディープインパクト。5月に管理する池江泰郎調教師が凱旋門賞出走を表明し、その前哨戦として宝塚記念を選択した。

この年の宝塚記念は2004年の皐月賞を制し復調ムードを漂わせていたダイワメジャー、前年のマイルチャンピオンシップを制したハットトリック、地方競馬所属馬として初めて海外(シンガポール)のG1レースを制したコスモバルクといったG1馬が出走。その他にも天皇賞・春でディープインパクトの2着に入ったリンカーンなども出走した。

しかし、ディープインパクトが圧倒的な支持を得て、単勝支持率がレース史上最多の75.2%をマーク。単勝オッズは1.1倍の圧倒的な支持を得て、2番人気のリンカーンの単勝オッズは12.9倍と、ディープインパクト1強のムードであった。

だが、そんなディープインパクトに競馬の神から最後の課題が突きつけられた。レース当日の朝から降っていた雨が午後になって強くなったのである。馬場状態は稍重馬場と発表されたものの、重馬場に近い状態であった。この馬場で強いレースをしなければ、凱旋門賞が行われるロンシャン競馬場の馬場を克服できない…。切れ味を身上とするディープインパクトにとっては大きな課題であった。

レースは重馬場得意のバランスオブゲームが逃げ、ディープインパクトは後方2番手からレースを進める。他の馬達が馬場に脚を取られる中、坂の下りで徐々に上がって来たディープインパクトは4コーナーを回り切った所では3番手に付いた。

バランスオブゲームが粘るが、残り200mの標識を切った所で先頭に立ったディープインパクト。後続からナリタセンチュリーが迫るものの、最後は武豊騎手が流して4馬身差を付けてゴールした。

その後、7月にIFHA(国際競馬統括機関連盟)から、『トップ50ワールドリーディングホース』の上半期が発表された。宝塚記念でのディープインパクトは125ポイントをマーク。これはアイルランドのハリケーンランとドイツのシロッコと並び2006年上半期の世界No.1となった。これは日本競馬史上初めての快挙であった。

※馬齢はすべて現在の表記に統一しています。

写真:Horse Memorys、かず

著者:おかの ひろのぶ