プロローグ

「何度目になるんかなあ。リオ(パラリンピック)の前年やから2015年の……そう、ちょうど今くらいの時季やったから、丸9年になるんかな。それから少ない年でも1年に2度、多い年やったら3回くらいは往復してますもんね」

東京パラリンピック馬術競技で、日本人として21年ぶりに入賞(7位)を果たした宮路満英選手(66歳)。3大会連続出場を賭けた選考会に向けて、2024年6月1日。コマンダーを務める裕美子夫人とともに、ヨーロッパでの拠点を置くオランダに旅立った。

冒頭のコメントは、関西国際空港を発つ前夜、「オランダに行くのは何度目になるんですか」という記者の問いに、二人が顔を見合わせながら答えたものだが、結局のところ、正確な数字はわかず終いだった。航空券を手配しながら日程変更を余儀なくされたり、逆に渡欧はしたものの、予定していた試合に出られずに帰国、といったアクシデントに見舞われたこともあった。要するに、その場ですぐに往復した回数をカウントするのは難しかったのだ。

しかし、夫婦がそうまでして日本とオランダを往復することで、当初から意図したことではなかったが、日本のパラ馬術選手が世界に羽ばたく先鞭をつけることにつながった。そうして現在にいたっている。

これまでの歩み

JRA栗東トレーニングセンターで、森秀行厩舎の名物調教助手として活躍していた宮路満英選手が脳卒中に倒れたのは2005年7月。約1カ月死線を彷徨い、意識が戻った後も右半身付随、短期記憶障害、言語障害等の高次脳機能障害の後遺症に悩まされ続けた。

セラピーの一環として始めた乗馬で馬と再会すると、馬場馬術に目覚めて本格的に競技の世界に飛び込み、2度のパラリンピック出場。パリ大会を目指す現在がある。

その間もずっと、日々の体調管理には留意しながらも、なにかの拍子に、アクシデントに見舞われた。

そう、つまり華やかな競馬の世界から生活が一転した後は、ほぼ毎日がリハビリの日々となる。それは常に自分自身との戦いでもあった。たった一人で継続できたかどうか。

そこには、支え続けた妻の姿があった。献身的に? そうじゃない。
「そうしなくては自分自身が納得できなかった」
からだった。

「ここまで本当にいろんなアクシデントがありましたよ。実は今回だって……」

オランダへの出発を3週間後に控えた5月10日。午後になって満英が下血した。出血が大量だったため、すぐに病院へ。2014年に発症した大腸憩室炎だった。10年前と同じように、麻痺している右半身に痛みがまったくなかったせいで、気付くのが遅くなったのだった。治療後、10日間の安静が告げられ、当然、乗馬、水泳といった日々のトレーニングも禁止に。旅立ちが迫るにつれて焦りが出始めるが、5月22日にトレーニングを再開すると症状は回復。何とか6月1日のフライトに間に合ったのだった。

2日後、勝手知ったるオランダのミランカ・シェレケンスが経営する乗馬クラブに無事到着。愛馬フライライト号と再会し、14日からクローネンバークで開催される大会に向けて順調に調整が進められていた。

ところが現地に経つ前日、またしてもアクシデントが襲う。通常の歩様の際に、馬がほんのちょっと躓いて、4月と同様、跛行が出てしまったのだ。パリパラリンピック出場がかかったラストチャンスとなる試合。それだけにギリギリまで経過を見守ったが、症状に大きな変化はなく、出場を断念することになってしまった。

環境が大きく変わった1年だった。これについては、二人もはっきり自覚していたし、覚悟もしていた。が、馬術の場合は本人達の体調や意識の持ち様だけではどうすることもできないことがある。それも当然わかっていたことだった。

それでも……。

発病からの20年

少しだけ、ことの始まりに話を戻す──。

2005年7月8日の早朝のこと。JRA栗東トレーニングセンターの森秀行厩舎の休憩エリア。調教が始まる直前で、さあこれから馬に騎乗しよう、としていた矢先に満英は脳卒中(左脳内出血)に倒れた。

救急車で病院に搬送され、すぐに外科手術を受けられたのは、症状が深刻だったことを思えば不幸中の幸いだった、とも言えるが、術後はこん睡状態に陥って、ICUで3週間ほど寝た切りで、意識が戻らないまま過ごすことになる。

目が覚めた時、医師の問いに自分の年齢を20歳も若く「27歳」と答え、妻には「あんた誰?」と顔を覚えていなかった。いやそれ以前に、そうした言葉そのものを満足に発することもできなかった。

そもそも、手術を終えた直後の、医師の見立てからして絶望的なものだった。

「意識が戻らない状態で寝たきりになるか、目覚めても言葉が出てくるまでに回復するかどうか。車いすでの生活になることだけは覚悟しておいてください」

こう言われて冷静でいられるわけがない。頭部全体を包帯で覆われ、鼻から通した人工呼吸器や点滴用の管など、痛々しい姿でベッドに横たわる夫を見ながら、三日三晩、ほとんど眠れずに将来のことを悩み続けた。

「治療中の機具を全部外してしまって、この人を死なせてから自分も後に続こう」

と、いよいよ追い詰められた時だった。その当時、もっとも頻繁に会い、仲良くやりとしていた友人のことをふと思い出し、連絡をとって会うことになった。待ち合わせたJR草津駅近くのレストランで顔を見るなり、それまで抑えていた感情が噴き出した。

女性の名は〝カオルさん〟といった。裕美子が行きつけの居酒屋さんで知り合った。

「健康食品かなんかを扱ってる、実業家ふうの人でした。政治から経済、商売のこととか、いろんなこと知ってはって。気軽に何でも話せたし、相談にも乗ってもらったりで、会った時は長い時間、話してました。ただ、そのお店以外で会うということはなかったんです。それなのに……」

久しぶりに会って、夫が倒れてから一人で抱え込み、悩み続けたことを一気にまくしたてた。そして周囲の人目をはばからずに号泣する。夫が倒れてから、初めて泣いたのがその時だったことに気付くと、冷静さを取り戻す。すると不思議なことに、気持ちがスーッと落ち着くのがわかった。

〝カオルさん〟という表記にとどめているのは、実は名字を覚えていないから。そう考えると、古くからの付き合いであるとか、深い関係だった、わけではない。

しかし、人生のある一定期間……もしかすると、充実した美しく輝ける季節だけ、かもしれないが、一生分の濃い関係性を築いた相手が、誰にでも存在するのではないか。

そういう人物が、往々にして人の一生を左右する働きをすることも。

裕美子にとって、夫が倒れて意識が戻らないタイミングに、そうした相手が居たことは大きな救いになった。間違いなく一旦は覚悟した〝最悪の事態〟を前にして、気持ちを切り替えることができたのだから。

だから、二人は今もって繰り返す。

「すべては出会いやと思います。どのタイミングで、どういう人と出会うのかはわかりませんけど……。でも積極的に何かをしないと、出会いはやってこない。そう思っているんですけどね」

そして9年目のオランダへ

今年のヨーロッパ遠征は4月に続いての2度目。その際に出場を予定していたのはベルギーでの大会だったが、まずは拠点のあるオランダのベスト(オランダ南東部の地方都市)に向かい、そこで一旦、荷物を解く。

大会に向けてナショナルチームの一員として動く場合は、スタッフも帯同するので気持ち的にも体力的にもいくらか楽だが、昨年からチームを離れての活動だけに、ひとつひとつに手間がかかる。

それでも、さすがにキャリアを積んでいる大ベテラン。空港まで、そして空港に着いてからの動きも手慣れたもの。

搭乗手続きに時間的な余裕を持つため、宿から大荷物を積み込んだ車で早めに空港に移動。駐車場のベストポジションに車を滑り込ませたのは、フライトの定刻の3時間前。

手早く電動車いすをセッティングして満英を乗せると、エレベーターはもちろん、レートが有利な両替機の設置場所も頭に入っていて、テキパキと雑事を済ませていく。

出発ラウンジに着けば、身障者用のカウンターが使えるとはいえ、電動車いすを始めとした手荷物のチェックインの手続きにもストレスはかからない。それを言うなら、担当していない別のスタッフが近づいてきて、旧知の仲のように笑顔で手を振るシーンもあったほどだ。

空港内のことで驚かされたのは、右半身の麻痺の影響で普段は移動に手間取る満英が、電動車いすのスムーズさに水を得たのか、生き生きとしていたことだ。軽快な動きで、狭いスペースでもまったく苦にすることなく移動してみせた。

身体障害者の器具の使用に関する是非は、いつも様々に議論される。しかし当事者の気持ちを明るくする効果があることだけは間違いないのだろう、と改めて思わされる。

いずれにしても、約20日間にわたる遠征を前にしながら、二人に緊張感はまったくなさそうに、いやむしろ楽しそうにも見えた。もしかすると、競技者としてヨーロッパに行くことが最後になるかもしれない、という自覚をはっきりと抱いていながらもである。

そうしたことを踏まえての、クローネンバーグ大会直前でのアクシデント。そして戦わずして3大会連続でのパラリンピック出場の断念……。

ひとまず心を落ち着けて、個人の出場2枠をかけて争う他の日本チームの選手達の応援に現地に駆け付ける。

「これからのことは試合が終わって帰国してから」

ということで、夫婦の意見は一致しているのだった。

(次回につづく)

書籍紹介

『やってみたらええやん―パラ馬術に挑んだ二人』

絶望のあとを、どう生きるか

63歳で東京パラリンピックに出場、7位入賞。
JRAの元調教助手、宮路満英と妻の道行き。

第二の人生で大切なのは、〝出会い〟と〝やる気〟

47歳で脳卒中に倒れ、右半身の麻痺と高次脳機能障害を負ったJRAの元調教助手〝みやじぃ〟こと宮路英。心優しき仲間や理学療法士のサポートを受け、リハビリの一環として乗馬やスキー、マラソンにも積極的取り組む。やがて、〝コマンダー〟を務める妻とともに、本格的なパラ馬術競技の世界へ足を踏み入れ、「気」と「やる気」で、リオ、東京と二つの大舞台に立つ。ユーモアを絶やさず、馬とともに生きる二人の、挑戦の日々を追う。

著者:和田章郎