東京の老舗洋食店、たいめいけんや資生堂パーラー。意外なことに戦前は、芸者のみなさんがこれらの洋食店に常連客として通っていました。『お好み焼きの戦前史』において、なぜお好み焼き屋は花街に多かったのか、なぜ芸者衆の客が多かったのかを明らかにした、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

老舗洋食店の常連客はなぜか芸者衆
 1931(昭和6)年創業の日本橋の老舗洋食店、たいめいけん。

 創業時の店舗の場所は、新川の花柳界。創業者によると開店当時の常連客は、花柳界の芸者衆でした。

 “花柳界のなかに店があったもんで、あたしもあれこれ工夫して、芸者衆の好みに合うようにと、薄いトーストに黒蜜をつけた「みつぱん」なんてのを売り出したもんです。”

 “そのほかに、芸者衆が好んで食べるものといえば、オムライスで、これも中に入れるトマトライスはほんの三口ぐらいにして、卵は三個も使いました。”(茂出木心護『洋食やたいめいけんよもやま噺 』2014年刊)

 現在のたいめいけんの名物は、映画『タンポポ』にちなんだタンポポオムライスですが、かつての名物は、ご飯少し卵たっぷりの「芸者オムライス」だったのです。

 根岸の老舗洋食店香味屋は、もともと食料品店であったのが、芸者衆のリクエストにより洋食店に転業したという、変わった経歴の店です。

 “この一つ筋向こうが花街で、そこで最初は食糧品屋のようなことをやってました。昔の芸者衆は座敷に出ると何も食べられない。そこで、何か食べさせてよ、という要望に応えてサンドイッチチなんかつくりはじめて”(森まゆみ『明治・大正を食べ歩く』2004年刊)

銀座の老舗洋食店の常連客も芸者衆
 “そのころの新橋の芸者は、家でなんかヒル飯を食うような芸者はいなかったものだそうだ。いい時間をねらって資生堂へ行くと、若い奇麗な芸者の顔があら方見られた。”

 “七人組の老松、栄龍、勝利、後に花柳寿美になった小奴、そういう連中の顔を私たちはみんな資生堂で見た。”(小島政二郎『舌の散歩』1960年刊)

 銀座の老舗洋食店・資生堂パーラーも、かつては芸者衆を常連客としていました。この伝統は、その前身である資生堂ソーダファウンテンから引き継がれたものでした。

 日本で初めてカツサンドを出したといわれるカフェー・プランタン(『明治時代の銀座に現れたカツサンド。実はフランス料理だった?』参照)は、当初会員制のカフェーとして発足しましたが、その会員には名士や文士とともに新橋の芸者が名を連ねていました。

 その関係か花街への洋食の出前が多く、新橋の待合で洋食といえばまずプランタンだったそうです(安藤更生『銀座細見』1931年刊)。

そもそも銀座そのものが花街だった
 なぜ銀座の洋食店、資生堂パーラーやカフェー・プランタンに芸者衆の常連客が多かったのでしょうか。

 花街の歴史を研究している加藤政洋教授によると、“芸妓を抱える置屋と芸妓の派遣先となる特定のサーヴィス業がある程度集積”していたという花街の定義からすれば、銀座は立派な花街だったのです。

 “花街名が《新橋》と称されることから現在ではあまり意識されることもないと思われるが、銀座は歴とした花街だったのである。裏通りの金春通、仲通、板新道、山城町、信楽新道にそれぞれ数十軒ずつ芸妓屋が立地していた。”(加藤政洋 『花街』2005年刊)

 加藤教授によると、日本各地の都市で花街が膨張し始めたのは明治時代以降。その最盛期は昭和初期。たいめいけんや香味屋、資生堂パーラーが創業したのは、まさに花街の最盛期だったのです。

 銀座だけでなく、浅草や上野などの主だった繁華街には置屋が置かれ、東京の街なかには現在の京都祇園以上に芸者が溢れていました。

 たいめいけんが創業した新川や香味屋の根岸など、現在は閑静な住宅街・オフィス街となっている場所すらも、芸者たちが闊歩(かっぽ)する花街だったのです。

 “けれども、おそらく今わたしたちが考えている以上に花街は遍在していた。”
 “一般に縁遠い異世界・異空間どころか、「花街」は都市の空間的な共通項だったといっても過言ではない。”(加藤政洋 『花街』2005年刊)

 花柳界や芸者衆は、絶滅危惧種と化した現在では京都祇園のような“一般に縁遠い異世界・異空間”の存在と思われがちですが、かつては都市部の繁華街にありふれた存在。繁華街や外食店に芸者衆がいるのは、東京のごく日常の光景だったのです。

芸者衆が洋食店を好んだ理由
 しかしながら芸者衆の皆さんは、そば屋や鰻屋、天ぷら屋や寿司屋といった東京伝統の飲食店を避けていたようです。これらの店における芸者の目撃談というのは、あまり聞きません。

 なぜ芸者衆の皆さんは、東京の多彩な外食店の中から、洋食店を選んだのでしょうか? 

 同じように、東京伝統の飲食店よりも洋食店を選ぶ人々がいました。学生です。

 神田や本郷などの学生街は、1900(明治30)年代から大衆的な洋食店が立ち並ぶ、洋食店の集積地となっていました(近代食文化研究会『串かつの戦前史』参照)。学生たちが洋食を好んだからです。

 芸者と学生には共通点があります。東京以外の地方から上京してきた若者が多いということです。そして彼らにとって、東京伝統の料理は馴染みのないものでした。

 昭和時代初期の天ぷらは東京・関東ローカルの食物。現在のように全国に普及してはいませんでした。握り寿司も、大阪や名古屋、神戸への普及は早かったのですが、京都など内陸部への普及は遅かったのです。

 そばや鰻の蒲焼きも、地方によっては見慣れない食物。芸者や学生の出身地によっては、握り寿司も洋食も、同等に食べ慣れない食物だったのです。

 そば屋や寿司屋、鰻屋などには、独特の符丁(言葉)やしきたりがあります。地元民に囲まれて、慣れない言葉や習慣を強制される東京伝統の店は、地方から上京したての若者にとっては居づらい場所だったのです。

 その一方で洋食店は、東京の地元の人々にとってもまだまだ慣れない店。地方から上京した芸者衆や学生にとって、東京人と対等な立場に立てる洋食店は、入りやすい場所だったのかもしれません。