“ヴィジュアル系インサイドセールス”の肩書きで活躍しているMIHIROさん。ヴィジュアル系バンドのギタリストとしてデビューし、約13年の活動の末に引退。現在はビジネスマンに転身し、過去の経験を武器に、株式会社ホットリンクでインサイドセールス(非対面で行う営業活動)として活躍中。そんな異色の経歴が、SNSを中心に話題となっている。

今回はMIHIROさんにインタビューし、彼の波瀾万丈な人生を前編・後編に分けてお届けする。前編では高校時代に経験した壮絶ないじめや、憧れのギタリスト・MIYAVIさんとの出会いなど、バンドマンになるまでのストーリーをご紹介。いじめを乗り越え、夢だったデビューを叶えた彼の物語には、前向きに生きるヒントが隠されていた。

■「僕が間違っているのか…」高校入学時のいじめで絶望の淵
――MIHIROさんの高校時代について教えてください。

「高校1年生の頃の僕はいじめられっ子だったんです。僕の人格に大きな影響を与え、辛かった時期ですね」

――いつからいじめが始まったのですか?

「高校に入学してすぐでしたね」

――いじめの原因は何だったのでしょうか?

「僕、中学生の頃からヴィジュアル系バンドの大ファンだったんです。ヴィジュアル系バンドに憧れて入学時から眉毛を整えたり、ピアスをあけたりしていたんですよね。でも、入学した高校は伝統的で真面目な進学校。ルックスで悪目立ちしてしまい、クラスメイトにはからかわれ、はぶられてしまったんです。最初は上履きや教科書を隠されていましたが、次第に激しくなっていって、口に含んだ水をかけられたり、授業中に先生が後ろを向いた瞬間に物を投げられたりと、暴力的ないじめにエスカレートしていきました。例えば休み時間になると、教室の掃除用具入れの大きなロッカーに閉じ込められるんです。5人がかりとかで押さえつけられて、出る事ができない。その後、外からロッカーをみんなで蹴るんです。中は真っ暗闇で、ガン!ガン!って衝撃と音が鳴り響いて…。すごく怖かったです」

――それはとても辛い体験ですね…。当時の心境を教えてください。

「学校が嫌で仕方なかったのですが、当時はいじめに抗えなかったんです。中学生の頃は学校がすごく楽しくて、家族とも平和に暮らしていたのに、突然複数から攻撃される対象となって。どう対応したらいいのか分からなかったんです。いじめって、反抗しないとどんどんエスカレートしていくんですよね。また偏差値の高い学校だったので、ある意味で賢いのか、いじめっ子も先生にバレないように上手くいじめてくるんです。味方してくれる人もおらず、どんどん学校が嫌になって、成績も落ちていきました。進学校で成績も悪くて、見た目も不良のようだと扱われ、学校側からは問題児扱いをされていました」

――いじめの原因は見た目だけだったのでしょうか…?

「そもそもクラス全体があまり仲良くなかったんです。細かく派閥に分かれていました。その中で僕は、あまり気にせずどこにも属さないスタンスでいたら、一部のグループから『おまえ、なんなの?』と絡まれるようになりました」

――なんと…。クラスの派閥争いも原因の一つだったんですね。

「最初は様子見のように、からかわれるところから始まったんです。ですが、それに僕が強く抵抗できなかったので『こいつ何やってもいいんだな』と思われ、いじめがエスカレートしていったんだと思います」

――辛いいじめが続くなか、ずっと学校には通われていたのでしょうか?

「半年間いじめに耐えつつも学校に通っていましたが、登校拒否となる決定的な出来事が起こったんです」

――何が起こったのですか?

「ある日、登校したら教室が騒ついていたんです。『なんだろう?』と思いながら席に着くと、僕の机の上にアダルトビデオが置かれていたんです。明らかにいじめっ子たちが嫌がらせで仕掛けたことは分かっていましたが、高校生が持っていてはいけないものじゃないですか。先生にそのビデオが見つかると、そのまま生徒指導室に連れて行かれました。そこで僕は半年間のいじめについて話し『ビデオも僕が持ってきたものではない』と主張しました。ですが『お前は眉毛を細くしたり、色気づいているからこんなビデオを見ているのか』と言われたんです。『え…?』と思い、僕の持ち物ではないことを再度訴えました。しかし先生からは『お前はこんなのを持って色気づいているから髪を伸ばしてんのか?眉毛を整えるのに夢中だから、成績が悪いのか?』と、そのビデオで殴られたんです。『これ、自分で処理しとけよ。女みたいな見た目も直せ。馬鹿が』と言い放たれました」

――そんな酷いことがあったのですね。

「僕は今まで我慢していた部分があったんですが、殴られた物理的な痛みが走った瞬間に、僕のなかでスイッチが入ってしまって。未だにあの感覚は覚えています。僕の中でMIHIROが生まれた瞬間でした。その瞬間に『世の中って不条理で、正しいことを言っても信じてもらえないんだな』と、どうでもよくなってしまって。教室に戻るといじめていた奴らがニヤニヤしていて、そこで遂にキレてしまい教室のドアを壊すなど、大喧嘩してしまったんです。それが大問題となり、僕だけが停学処分となりました」

――いじめについてご両親には相談されていたのでしょうか?

「いえ、当時は親にも相談できませんでした。中学生までは友達とも仲が良く、成績も良く、自慢の息子だと思ってくれていたので、その気持ちを裏切りたくなかったんです。なので親も学校の状況をきちんと把握できていなくて。親からは停学中、『勉強しなさい』『なんで学校に行かないの』とずっと怒られていました。それも辛くてどんどん追い詰められていきました」

――ご両親をがっかりさせたくないという思いから何も言うことができなかったんですね。

「はい。そこからもう耐えられず、登校拒否になってしまいました。その頃からトラウマで不眠症になってしまったんです。目を閉じると、ロッカーの中に閉じ込められたことや、生徒指導室で殴られた体験がフラッシュバックしました。長すぎる夜に眠れないことが辛くて。『なにが正しいのか、僕が悪かったのか、なにが正義なのか、生きる意味とは何なのか、世の中こんな不条理なら生きていく意味はあるのか…』そんなことを悶々と考えていました。当時は『僕が間違っているんだ。僕がいなくなればいいんだ』と自殺も考えるようになりました」

――精神的にかなり追い詰められていたのですね。眠れない夜はどうやって過ごしていたのですか?

「眠れない夜には『X JAPAN』や『DIR EN GREY』を聴いていて。彼らの曲は僕の気持ちを代弁してくれていて、当時の僕の唯一の救いだったんです。かっこいいメイクをしながら弱々しい歌詞を歌うバンドマンがヒーローに見えました。死が頭をよぎっていましたが徐々に『命を懸けてバンドをしよう』と、彼らのおかげで生きる活力が湧いてきたんです。音楽とバンドマンに憧れる気持ちに救われて、『僕も、同じ悩みを持つ人を救えるようなバンドマンになりたい!』とミュージシャンを目指すようになりました」

――いじめがきっかけでバンドマンを目指されたのですね。登校拒否後、学校は卒業まで通われなかったのでしょうか?

「2年生からは通学しました。ですが停学前に一度大暴れしたのでいじめっ子からも『アイツはやばい』と思われたのか、孤立はしていましたが、直接的な嫌がらせはなくなりました」

――やはりいじめに対しては拒絶したり、反抗したりすることが重要なんですね。今もし同じ境遇に置かれている方がいたら何を伝えたいですか?

「僕の体験からすると、誰かに相談するって難しいんです。周りに言うことで心配されたり大ごとになるのも辛いんです。言っても分かってもらえないだろうと、自分を閉ざしてしまう場合もあります。学生だと、自分の世界が学校と家族がほとんどなので、自分が少数派になる環境がすべてだと思ってしまう。でも、外には自分が認められる場所が必ずあるはず。たまたま10代の早い段階で自分に合わない環境に出会ってしまっただけなんですよね。それだけで『自分が間違っている』『自分が世界から嫌われている』と思わないでほしい。早めにそのような経験をすると、人の痛みを知れますし、乗り越えれば人に優しくなれると思います。僕もいじめられていた当時はとても辛かったですが、今は『死ななくて本当によかった』と心の底から思っています」

■「MIYAVIさんには視座を高く持つ姿勢を教えてもらいました」

――辛い高校時代に生きる活力を与えてくれたバンドマンへの夢。夢を叶えるためにどんな行動をされてきたのでしょうか?

「ある時、ヴィジュアル系バンドの音楽雑誌を読んでいたら、人気バンドマンのインタビュー記事に『昔ローディーをやっていました』という話が頻繁に出てくることに気付いたんです。“ローディー”とは、コンサートやライブツアーを支えるスタッフのことで、当時はきちんと理解していませんでしたが、『ローディーになるとプロの道が開ける』と漠然と思っていました。そんなある日、ギタリストのMIYAVIさんが所属していたバンド『Dué le quartz(デュール クォーツ)』のCDを買ったら “ローディー募集”と書かれたチラシが同封されていたんです。見た瞬間に『これだ!』と思い応募しました」

――MIYAVIさん所属のバンドのローディーは競争率が高そうですが、結果はどうでしたか?

「『履歴書を送ってください。2週間経って連絡がなければ落ちたと思ってください』と言われ応募しましたが、待っても結局連絡はなかったんです。『落ちたんだ…』とがっかりしましたが、『僕以上にやる気のある人なんていないはず!履歴書を見ただけで僕の何がわかるんだ!』と思い直し、電話したんです。『なんでダメなんですか!?』と半ばキレ気味で(笑)。すると向こうの担当者さんも押されたのか『では今度ライブに来てください。楽屋に通すのでお話しましょう』と言われ、ライブ会場で面談をしました。『今日からよろしくお願いします』とメンバーにも紹介されて、その日のライブからローディーとしてお手伝いすることになりました。その時は憧れていたバンドのメンバーが目の前にいて、本当に夢みたいでしたね」

――すごい!結局、担当者さんはMIHIROさんに合格の連絡を忘れられていたのでしょうか?

「いえ、後から知ったことなのですが、それこそが一次面接だったようです。というのも、ローディーって想像以上に過酷なんです。全国各地のライブ等に同行するので自分のプライベートは皆無ですし、仕事も機材を運んだりと重労働なんですね。業界的に当時は体育会系の縦社会で、ベテランのスタッフの方たちは職人気質で手が出ることもあります。なので、気合が入っている人でないと続かないんです。『2週間待って連絡なければ不採用です』と言われて連絡してこない人はそもそも採らないというスタンスだったんです。自分から電話をした時点でほぼ合格だったようです」

――行動したからこそなれたローディーだったんですね。ローディーになってからはどんな日々でしたか?

「とても貴重な経験で、バンドマンとして学ぶことがたくさんありました。家に帰れない日々が続いたので、当時はMIYAVIさんの部屋に泊めてもらうことが多く、半同棲のような生活をしていましたね(笑)」

――MIYAVIさんとの半同棲生活うらやましいです(笑)。

「ステージ以外のMIYAVIさんを見られたことはとても勉強になりました。当時のMIYAVIさんは天才で破天荒なイメージでしたが、実際は違っていて超絶努力家。寝ているのは移動中や僅かな空き時間だけで、それ以外はギターの練習やパソコンで曲作りをされていました。僕はその姿を間近で見ていて『成功する方の努力量ってこんなにすごいんだ』と、10代で知れたことはとても貴重でした。視座がとても高くなりましたね。また人柄もとても優しくて、いつも僕に対して真剣に向き合ってくれました。高校生時代からの人間不信を引きずっていた僕は、こんなに素敵な人も世の中にいるのかと感動し、救われる気持ちでした」

――MIYAVIさんと過ごした日々で、特に印象的だったエピソードがあれば教えてください。

「とにかくめちゃくちゃかっこよくて、ステージ以外でも常にMIYAVIさんなんです。家でも常に皮パンを履いていて、外にいる時と服装が変わらなかったですね(笑)。あと印象的だったのは、僕がローディーを卒業する時にかけてくれた言葉。僕が自分のバンドを始めるというタイミングだったので、MIYAVIさんから『バンド頑張れよ。つっちゃん(MIHIROさんの愛称)はどんなバンドマンになりたいねん?』と聞かれて。僕は『憧れのMIYAVIさんみたいになりたいです!』と答えたら怒られたんです」

――なぜですか?

「『お前そんなんじゃあかんで。俺なんてヴィジュアル系というフィールドのなかで少し注目を浴びているだけで、俺を目指すくらいじゃ全然ダメ。世界中を見れば俺よりスゴイ人なんてゴロゴロいて、俺はそういうところを目指してる。お前も俺に憧れるんじゃなくて、今のうちからそういう視座を持って、俺を脅かすくらいの奴になれよ』と言われて、しびれました。今世界規模で活躍されている姿を見ると、あの時の言葉がより真実味を増して、改めてスゴイなと思っています。MIYAVIさんには視座を高く持つ姿勢を教えてもらいました」

高校時代のいじめを乗り越え、ヴィジュアル系バンドマンになる夢を実現したMIHIROさん。後編では念願のバンドマン活動と引退、そしてビジネスマンとして歩むこととなったストーリーを深堀りしていく。