2024年3月20日、黒川信雄著『空爆と制裁 元モスクワ特派員が見た戦時下のキーウとモスクワ』(ウェッジ)が発刊されます。産経新聞元モスクワ特派員の筆者が、開戦後のウクライナとロシア双方に渡り、人々の本音に迫ったノンフィクションです。
発刊に際し、第二章『制裁下のモスクワへ』を、全6回の連載にて全文公開いたします。
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連載第1回はこちらから

 多くのロシア人の若者らにとって、国外脱出は決して容易な決断ではなかった。

 ウクライナ侵攻を受けた欧米諸国による経済制裁により、ロシアから海外に向かう国際便の数は激減した。ロシアでは、侵攻前は1日あたり約210便あった国際便は、侵攻直後の2022年3月上旬には約90便に減少した。

 航空券の価格は高騰し、私財を投げうってチケットを手に入れても、突然の飛行キャンセルで出発できないケースもあった。脱出した人々に、高所得者や子供を持たない若者らが多いのは、これらの問題をクリアできる財力があったためだ。

 中には、自分の子供が将来徴兵される事態を懸念して、親が子供だけを国外に脱出させたケースも報告されている。

 私の知人にも、国外脱出を目指したものの「お金がない。どうしても出国できない」との理由で、やむなくロシアにとどまった人もいた。

 そのような人々は、本音を包み隠しながら、ロシア国内での生活を続けているのが実態だ。

 さらに、脱出できたとしても、海外で長期間生活できる十分な財産を持っているとは限らず、職が見つからなければ、帰国を余儀なくされる可能性もある。

 しかし、国外脱出者や、政権に批判的な行動をとる自国民に対し、プーチン大統領は極めて冷酷な対応をとった。侵攻開始から約3週間後の2022年3月16日には、プーチン大統領は政権幹部に対しこう語ってみせた。

「(西側は)当然、いわゆる第五列、つまり、裏切り者たちに期待をかけているのだろう」

「ロシア人は、常に本当の愛国者と裏切り者を峻別することができる。そのような者たちは、口に偶然飛び込んできたコバエのように、吐き出してやればいい」

「(彼らの)目的はただひとつ。ロシアの破壊だ」

「(裏切り者の海外脱出は)ごく自然なことであり、社会の浄化には必要なことだ。その結果として国家は強化され、人々はさらに団結し、あらゆる挑戦に対する準備が整えられるに違いない」

 第五列とは、自国にいながら敵に通ずるとされる〝裏切り者〟のことを指す。プーチン大統領はここで明確に、たとえロシア国民であっても、欧米諸国に共鳴する者らは裏切り者だとし、徹底的に排除する姿勢を鮮明にした。

 さらに〝ハエ〟などと最も侮蔑的な言葉を使って彼らを形容し、叩き潰す考えすら示唆した。自国民に対し、このような発言をする最高指導者の姿勢に、ウクライナ侵攻を少しでも批判的な視線でとらえていたロシア人は、絶望的な思いを抱いただろう。

 プーチン大統領はハエという表現を、ウクライナ南部マリウポリでロシア軍に徹底抗戦していた軍事組織「アゾフ大隊」にも使っていた。そのようなレッテルを貼られることがどのような意味を持つか、ロシア国民は正しく理解していたに違いない。

 開戦当初、私にはひとつの疑問があった。ロシア政府がなぜ、このような若者たちの国外脱出の動きを強く阻止しなかったのかということだ。隣国ジョージアとの国境で検査を強化したという話は耳に入ったが、モスクワ市内で航空会社のオフィスの前で人々が列をなすという行為は、明らかに政権には目障りだったに違いない。

 この疑問に対しては、前出のプーチン大統領の発言がほぼ答えを出した。プーチン大統領は反体制派、また積極的な反政権活動をしていなくとも、国外脱出をしてまでロシアを離れようとする国民については、むしろ国外に退去してもらった方が、その後の国内を統制しやすいと考えていたと推察される。

 もちろんこれは、海外でも仕事を得られるほど有能な自国民の頭脳流出が起きるという点で、ロシア経済には大きなマイナスであることは間違いない。ただ、中長期的な国内産業の発展と、目前の戦争勝利のための国内の引き締めのどちらを選ぶかで、プーチン大統領は間違いなく後者を選んでいた。こうして、戦争に疑問を持つ若者たちの声はさらに弱くなっていった。