沖縄戦で生き残った大隊長の詫び状、苦悩・悔恨つづり600人の遺族へ…356通の返信が物語る戦火の悲惨さ

読売新聞6/20(金)15:30

沖縄戦で生き残った大隊長の詫び状、苦悩・悔恨つづり600人の遺族へ…356通の返信が物語る戦火の悲惨さ

沖縄戦で戦死した川野里美・上等兵。この写真が、伊東さん宛ての返信に入っていた 【読売新聞社】

[戦後80年 昭和百年]沖縄<下>

 沖縄戦で歩兵大隊長として首里の防衛作戦にあたった元陸軍大尉の伊東孝一さん(2020年、99歳で死去)は戦後、戦死した部下約600人の遺族に「び状」を出し、悲しみや憤りなど複雑な感情がこもった356通の返信を受け取っていた。これを託され、遺族に返還し続ける夫婦がいる。沖縄県糸満市のジャーナリスト浜田哲二さん(62)と妻・律子さん(60)。80年の歳月を超え、戦死者の遺族らが肉親に思いをはせる瞬間に立ち会っている。

「懐かしんだことで帰ってきた」

 その兵士は真っすぐ前を見つめ、唇を結んでいた。5月23日、島根県江津市の山中にたたずむ寺の本堂に、沖縄戦で戦死した陸軍上等兵・川野里美さんの写真が置かれた。周りには遺族ら6人が集まっている。

 <戦死現認証明書、沖縄の土砂一包(み)、ご丁寧なご哀悼文を拝受つかまつりました>。律子さんが静かな声で手紙を読み上げていく。やがて遺族からすすり泣く声が漏れた。

 手紙が書かれたのは1946年6月2日。伊東元大隊長から送られてきた「詫び状」の返信として、里美さんの父・庄五郎さん(1959年死去)がしたためたものだ。

 庄五郎さんは、戦後1年近くたっても「息子は生きている」と淡い希望を抱いていた。しかし元大隊長からの詫び状で願いは断ち切られる。<今日に及びては戦死の疑いを入れざるをえません>。手紙は無念の思いをつづり、<(戦死した)当時の状況をお知らせ願えれば幸甚の至りに存じます>と続いていた。

 里美さんは、伊東元大隊長が率いる歩兵第32連隊第1大隊に所属していた。45年5月、沖縄・首里付近で戦闘中に死亡したとされる。

 手紙の朗読を聞いていた里美さんのめいの友村裕子さん(86)(大阪府茨木市)は、終戦を知らせる玉音放送の直後、祖母と母が「里美やぁ」と呼びながら、わんわん泣いて畳をたたいていた姿を忘れない。戦後、しばらくたって届いた詫び状を家族で囲んだ光景も思い出した。

 本堂に集まったもう一人のめい、山形京子さん(73)(広島市)は「母が生きていたらどれだけ喜んでくれたか」と表情を和ませた。

 京子さんの母にとって、勉強が得意で優しい里美さんは自慢の兄だった。7年前に亡くなる直前まで、兄の写真や戦地から送られてきたはがきを大切に保管していた。

 浜田さん夫妻は「集まった親族が戦没者のことを思い出し、懐かしんだことで、里美さんが古里に帰ってきたのだと思う」と顔をほころばせた。

9割が戦死した大隊

 伊東元大隊長は1920年、宮城県で生まれた。陸軍士官学校を卒業し、満州(現中国東北部)での部隊勤務を経て、44年8月、大隊長として23歳で沖縄にわたった。

 日本軍が司令部を置いた首里の北方で米軍と対峙たいじした。巧みに地形を利用し、火力を集中させて米兵を苦しめたが、約1000人いた部下の9割が戦死した。

 現地で終戦を迎え、46年春、神奈川県の実家に戻った。その後3か月かけて、戦死した部下のうち、連絡がついた約600人の遺族に詫び状を送る。

 <多くの部下を失って、何のお詫びの申し上げようもありません>と苦悩を打ち明け、戦死を証明する書類と共に、遺品の代わりに沖縄のサンゴを砕いて同封した。

 遺族からは続々と返信が届いた。ある戦死者の妻は<二人の子の父となり、母となり、強く生きる>と決意をつづった。弔慰金が出ず<敗戦国の死者はあわれむべき>と嘆く父がいた。戦死した当時の詳しい状況を繰り返し尋ねる妻もいた。返信の中には<あなたは帰還し、親兄弟までさぞ喜んだだろう。俺の心境を想像してくれ>と怒りをぶつける文面もあった。

 もともとボランティアで沖縄での遺骨収集を続けていた浜田さん夫妻が、伊東元大隊長と出会ったのは2016年のことだ。日本兵の身元特定を進める中で、自宅を訪ねたことで縁が生まれた。「殺し合いがどれだけ悲惨で残酷か、遺族の手紙が物語っている。沖縄戦の真実を伝えてほしい」と356通を託された。

「部下の働き 世に伝えるため」

 浜田哲二さん、律子さん夫妻が手紙を遺族の元に返す活動を始めて8年になる。差出人の住所を手がかりに、遺族の居場所を探してきた。詐欺と間違われることも少なくない。「思い出したくない」と受け取りを拒まれたこともあった。

 これまでに返還したのは約80通。遺族に手渡す際には、伊東元大隊長から託されたメッセージも朗読する。「戦後、恥を忍んで私が生き残ったのは、部下たちの働きを記録し、世に伝えるためです」――。その伊東元大隊長は2020年2月、99歳で亡くなった。

 浜田さん夫妻によると、伊東元大隊長は生き残ったことを後悔し、部下と一緒に死ぬべきだったと考えていたという。

 一方で、戦局が絶望化する中、米軍と対等に戦った部下の働きを後世に伝えたいとも思っていた。詫び状は心の葛藤の中で紡ぎ出され、遺族に送られた。

 ロシアによるウクライナ侵略で平和が揺らぐ中で、夫の哲二さんは約80年前に交わされた手紙の重みが増していると感じている。

 「伊東さんは手紙を大切に残し、遺族と戦没者のことを思い続けた。そのことが、80年前の戦争と今を結びつけ、平和の尊さを伝えている」と語る。夫妻は最後の1通まで、遺族の元に届けたいと考えている。

風化防止へデジタル化…壕の内部を疑似体験

 戦後80年を経て沖縄戦の記憶が風化しつつある中、デジタル技術を活用して戦争を語り継ぐ試みが進んでいる。

 沖縄県豊見城市は、戦前の沖縄を3Dで再現したバーチャルリアリティー(仮想現実)教材を開発した。これまで体験者の証言や数少ない写真に頼っていた学習を充実させる狙いがある。

 地域で暮らす高齢者の話などを基に集落を復元し、「時空記者」となった子どもたちがタイムスリップして取材していく趣向だ。7月にはインターネット上で公開する予定で、市教育委員会文化課の島袋幸司さん(41)は「戦争が人命だけでなく、身近な生活や環境も失わせてしまうことに思いを巡らせてほしい」と期待する。

 戦時中に住民が身を寄せたが、現在は劣化して立ち入りが難しくなった「轟壕とどろきごう」(糸満市)や、野戦病院になった「糸数アブチラガマ」(南城市)では内部を撮影した360度画像が製作されている。身を寄せた人の証言や記録写真とともに、住民の苦難を疑似体験することができる。

 県は慰霊碑「平和のいしじ」(糸満市)に刻まれた戦没者の検索サイトを開設し、現地に行くことができない人にも追悼の機会を提供する。平和の礎をメタバース(仮想空間)上で再現し、若者や外国人に訪れてもらう構想も進んでいる。

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6/23(月) 22:05更新

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