東大→外資系エリートの転落…窮地支えた餃子の王将「倒れるなら前に倒れろ」 36歳社長の壮絶人生

東大・大学院で人工知能(AI)と経営戦略を学び、ゴールドマン・サックスに就職。そんな超エリートは、学生時代の恩師と一緒に夢を実現するため、電力ビジネスの世界へ飛び込んだ。ベンチャー企業に参画したが、そこで待っていたのは資金繰り悪化の危機。“火中の栗”を拾って社長に就任し、倒産寸前のピンチを乗り越えた。現在は、再生可能エネルギーとAI技術を活用し、電力会社を介さずに発電側と顧客が直接取引できるプラットフォームを運営している。気鋭の36歳の“前しか見ない”経営者人生に迫った。

超エリートでエネルギッシュな『デジタルグリッド』豊田祐介社長【写真:同社提供】
超エリートでエネルギッシュな『デジタルグリッド』豊田祐介社長【写真:同社提供】

祖父は野村証券副社長の“華麗なる一族” 中学受験失敗、そこから中2でスペインへ

 東大・大学院で人工知能(AI)と経営戦略を学び、ゴールドマン・サックスに就職。そんな超エリートは、学生時代の恩師と一緒に夢を実現するため、電力ビジネスの世界へ飛び込んだ。ベンチャー企業に参画したが、そこで待っていたのは資金繰り悪化の危機。“火中の栗”を拾って社長に就任し、倒産寸前のピンチを乗り越えた。現在は、再生可能エネルギーとAI技術を活用し、電力会社を介さずに発電側と顧客が直接取引できるプラットフォームを運営している。気鋭の36歳の“前しか見ない”経営者人生に迫った。(取材・文=吉原知也)

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 電力系ベンチャー『デジタルグリッド』(東京)の豊田祐介社長。まさに華麗なる一族だ。祖父は野村証券の副社長を務めた故・豊田善一氏で、父はソニーのテレビ事業で活躍したエンジニアだ。中1で秋葉原に通って自作パソコンを組み上げてしまうほど、父親譲りの機械好き。大学時代にぷよぷよで世界3位になったほどのゲーマーでもある。

 そんな豊田社長は、小学校時代に早くも挫折を経験してしまう。「中学受験に失敗したんです。受かりたいところにすべて落ちて」。中高一貫校に入って中2のときに、果断に富んだ行動に出る。父親のスペイン赴任に付いていくことを決めたのだ。「受験失敗で、自分は努力が足りない、と謙虚になることの気付きを得ました。当時帰国子女に憧れて、『インターナショナルスクールに通えるなら行くよ』と父に返事したんです」。現地で約2年通い、英語の語学力を身に付けた。それに、「何も分からずちんぷんかんぷんだった初日の放課後に、好きなサッカーで遊んでいたら、一気に周囲と打ち解けることができました。異文化の人たちとも共通項があれば仲良くなれるんだ、ということを学びました」という。

 帰国したのは高校1年のとき。今度は日本の勉強に付いていけなくなりそうになった。そこで、ガリ勉モード全開に。「夕方4時頃に家に帰ってきて、30分ぐらい仮眠して、そこから深夜1時ぐらいまで勉強しました。数学・物理・化学・日本史・世界史と幅広くやり込みました」。成績が抜群に伸びて、特待生で卒業することができた。

 高校生当時、考えていたのは「人間の脳みそはいつかはコンピューターに取って代わられてしまうのか」という問題意識。AI分野に興味を持ち、東大を目指し一発合格を果たした。「人生の進路はいろいろ考えて、工学だけでなくビジネスについても学べる分野に進むことにしました。当時は『エンジニアでは飯を食っていけない。コンサルや金融ならば稼げるぞ』といったこともよく言われていましたので」。

 東大大学院に進み、勉学を深めた。「当時熱を入れていたのは、俯瞰経営学という単位の付かない授業でした。ある企業を想定して『M&A計画やマーケティング戦略を出しなさい』とテーマが決められて、6チームに分かれて毎週プレゼンして、互いに講評して、点数を付けて順位を発表するんです。チームで仕事をすることの基礎を学べました」。学部生時代にバドミントンサークルで出会った人生初の彼女と結婚し、2児の子宝に恵まれている。

 ゴールドマン・サックスでは現在の仕事につながるメガソーラーの開発・投資業務などに従事。投資ファンドに転職し、順風満帆なビジネスマン人生を歩んでいた。

44社に上った出資者は不安と怒り それでも「ここで会社を畳むわけにはいかない」

 社会人になって6年。ここで転機が訪れる。東大の研究室で師事した研究者の阿部力也氏と定期的に会っていた中で、電力取引のアイデア・研究を具現化させようとする熱い思いを聞いた。2017年の冬のことだ。「白髪を真っ黒に染めた先生が持ってきた企画書には、情熱が込められていました。自由に電力を選んで売買できるインターネットのシステムを創り出す。電力の世界で革命を起こすことができる、と。ただ、事業構築・資金計画の面で足りないところがありました。そこは僕のノウハウで補完できそうだなって。もともと『いつか先生と一緒に仕事がしたい』と思っていました。それは今なんじゃないか。そう直感したんです」。数日後に勤務先の投資ファンドに辞表を提出し、妻には「2年間、試させてほしい」と頭を下げた。こうして、阿部氏が立ち上げたデジタルグリッドに加わった。

 技術開発と企業向けの商業化に突き進む日々。しかし、新しいことをやるとどうしても出るお金が多くなってしまう。絶体絶命の危機に見舞われた。19年6月、大型の資金調達を見込んでいた中で、それがうまくいかず、運転資金の枯渇に陥った。3か月以内に4億5000万円を集めないと、会社がつぶれるところまで追い詰められた。

 44社に上った出資者は当然、「この先どうするんだ」と大きな不安と怒りに駆られている。ここで、豊田社長は一肌脱いだ。「世の中をよくするシステム。ここで会社を畳むわけにはいかない」。企画部門幹部の立場だったが、社長に名乗り出た。

 自ら泥船に乗り込み、従業員の整理解雇に着手。取引先への謝罪行脚と新規・継続の出資獲得に奔走した。「債権者の皆さんには『もう少し待ってください』と1日3~5件頭を下げに行って、出資のお願いで頭を下げて。でも、ベンチャーキャピタルは約40社が全滅。8月末で1億円ちょっとしか集まらなくて。最悪の場合、自己破産も想定していました」。

 タイムリミットはあと2週間。ここで奇跡が起きる。あきらめずに走り続ける中で、1つまた2つと出資先が出てきた。デッドラインの3日前に資金調達のめどが付いた。最終的に6億円が集まった。研究開発の継続を含めた約10人の従業員全員の努力の結果だ。

 そこには、株主の1人からもらった「倒れるなら前に倒れろ」の叱咤(しった)激励。糟糠の妻の「自分で決めたんだからやり切りなさい」というメッセージ。恩師と話し合った「将来の日本の役に立つのだから、ここで終わるわけにはいかない」という強い信念……。多くの人の支えがあった。

「エネルギーの奪い合いのために起こる戦争をなくして、平和な世界の実現に尽力したい」

 窮地の日々の当時、意外なささやかなモチベーションがあったという。「会社から終電で帰る途中に、『餃子の王将』でギョーザ2人前をテイクアウトして、家で缶ビール1本を飲むことが息抜きでした。スタンプがどんどんたまって、専用のへらをもらうことができました。5キロ太りましたが、このプチぜいたくにも支えられていました」と教えてくれた。

 資金が整って、20年春に無事にローンチ。大手林業メーカーが最初の顧客になるなど、新型コロナウイルス禍を乗り越えて、業績を順調に伸ばしている。経営者としての今後。「何のために汗を流して働いているのかを忘れないように、今後事業規模を大きくする中で、自分自身も成長していきたいです。電力をじゃぶじゃぶ使えるように供給し、再生可能エネルギーを普及させることが我々のミッションです。エネルギーの奪い合いのために起こる戦争をなくして、平和な世界の実現に尽力したいです」と前を見据える。

 七転び八起きの人生観。「前向きに倒れろ、ですね。阿部先生もおっしゃっていますが、『ジェットコースターは腰が引けていると怖くなる。前向きに乗ると楽しい』ということです。どんなピンチが訪れようと、最後まで妥協せず、あきらめず、自分のできる最善をやっていくことが大事だと思います」と力強いメッセージを寄せた。

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