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私論「島嶼国家日本」 私たちは「島人」という自画像を提唱 日本離島センター・小島愛之助専務理事

長崎県五島市福江島の「大瀬崎灯台」(提供:五島市)

 「日本」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるだろう。富士山、相撲、歌舞伎、アニメ、コメ、集団主義・・・と、次々とイメージされるだろう。さらに、「日本人」の定義はなんだろうか。実は、意外に難しい。定義によって導き出される答えが違ってくるからだ。

 例えば、日本人を「日本という土地に生まれ、育った人」と定義する。すると、日本国籍を持ちながら、海外で育ち、海外で暮らしている人は、日本人ではないということになる。逆に、日本以外の国籍の人でも、日本で生まれ、育った人は日本人になる。

 日本人とはなにか――その問いはタマネギの皮のように、むいてもむいても「正解」という芯になかなかたどり着けないのかもしれない。

 その正解に近づく一つの補助線として、国土交通省で日本の離島振興政策に長年、携わってきた公益財団法人日本離島センター・小島愛之助専務理事は、日本という土地に暮らす人々はすべて「島人」(しまびと)であるという自画像を提唱する。

 以下は、小島氏による「島嶼(とうしょ)国家日本」論である。(編集部)

 「大きな島から来ました」

 我が国は、四方を海に囲まれ、海とつながることにより生きてきた海洋国家であります。同時に、1万4125の島々から成り立っている島嶼国家でもあります。デンマークの自治領であるグリーンランドの217万5600平方キロメートルを世界第1位の島としますと、我が国の本州でさえ、約10分の1の22万7414平方キロメートル、世界第7位の島に過ぎません。

 グリーンランドと本州の間に存在するのは、ニューギニア(79万平方キロメートル)、カリマンタン(74万3330平方キロメートル)、マダガスカル(58万7041平方キロメートル)、バフィン(50万7451平方キロメートル)、スマトラ(42万5000平方キロメートル)といった五つの島々であります。

 かなり昔のことになってしまいますが、ある国際会議の席上で、オーストラリアの代表が「自分は大きな島から来ました」という自己紹介をしたという話を聞いたことがあります。言うまでもないことではありますが、オーストラリアはグリーンランドの約3.5倍、我が国の約20倍の面積769万2024平方キロメートルを誇る、五大陸の一つであります。私自身も2014年に、オーストラリアを訪問させていただき、その広大さに驚かされた記憶があります。

 一方、日本の本州に居住する日本人の多くが自分を「島人」であると認識しているかどうかを考えますと、残念ながら否定的な答えを示さざるを得ないでしょう。個人的には、「島国根性」という言葉の悪い側面(島国根性=非国際化という図式)が強調されすぎているのではないかと考えています。

 国際社会における閉鎖性は大陸においても散見される事象ではありますが、我が国の場合には、海の存在や他国からの距離に起因する部分が大きいと考えられるわけです。

東アジア交流地図(引用元:佐渡市、作成が2010年のため、現在の名称と異なっている箇所がある)

 

逆さ日本地図

 大陸と島、島と島の間には海があり、この島と海を介して、我が国は広く海外諸国とつながっています。

 筆者が勤務する日本離島センター(全国離島振興協議会事務局)の応接室には、新潟県佐渡市(佐渡島)が作成した「東アジア交流地図」というものがあります。日本列島を上部に大陸を下部に配置した、いわゆる「逆さ日本地図」でありますが、これを眺めてみますと、海を介したつながりを実感できるような気がします。

 まず、日本海側に眼を向けますと、佐渡、隠岐、壱岐、対馬、五島などといった島々を挟んで、ユーラシア大陸と接しております。実はこのことを体感できる場所があります。

 長崎県対馬市北西部の千俵蒔山(せんびょうまきやま)の中腹にある「異国(韓国)の見える丘」展望台がそれです。運が良ければ、約50キロ先にある、韓国・釜山市の街並みを見ることができます。

 他方、南の海に眼を転じてみますと、鹿児島から南西諸島を経て、遠くフィリピンやインドネシアへと続き、また伊豆諸島にはじまる東京諸島は、おそらくはマリアナ諸島へとつながっていると考えられるわけであります。

 これこそが、民俗学者で著名な柳田国男が唱え、小説家・島崎藤村が詠んだ「海上の道」にほかならないのではないでしょうか。「海上の道」は柳田の最晩年の著作でありますが、その原点は24歳の時に滞在した、愛知県伊良湖岬に椰子(やし)の実が漂着したことにある、と言われております。

 さらに、この体験を柳田が親友である島崎に語ったことから生まれた詩が「名も知らぬ 遠き島より流れよる 椰子の実ひとつ」なのであります。東京都の武蔵野台地にある旧石器時代の遺跡から、伊豆の神津島にあるものと同じ黒曜石(こくようせき)が発見されたという事実も「つながり」を感じさせるものではないかと推測されます。

離島振興法との関わり

 我が国が1万4125の島嶼から成り立っていると前述いたしましたが、そのうち、北海道、本州、四国、九州および沖縄本島を除く1万4120がいわゆる離島であります。さらに、このうち、256の有人離島を対象とする振興施策の根幹をなすものとして、「離島振興法」という法律があります。

 1953年に議員立法によって成立した法律でありますが、筆者は2002年、この法律の改正・延長に政府側の担当課長(国土交通省都市・地域整備局離島振興課長)として関係させていただくという、貴重な経験を得させていただきました。施行後50年の歴史を経て、時代背景も移り変わる中で、当時、法改正のポイントとして議論されましたことは、200カイリ時代における「国益」という観点でありました。

 「離島振興法」の対象離島256には、別の法律の対象になっている小笠原諸島、奄美群島、沖縄諸島、ならびに北方領土は含まれておりません。

 しかしながら、当時の法改正の理念は、明らかに、これらのすべての地域を包含するものでありました。すなわち、離島が、我が国の領域、排他的経済水域などの保全に重要な役割を担っていることが、初めて法の目的として明記されたのであります。その上で、地域の創意工夫と離島の自然的・地理的特性を活かした振興施策によって、離島地域の自立的発展を促進させることが目的として掲げられたのであります。

島に人が住むことの意味

 離島地域の自立的発展を促進させるのであれば、当然のことでありますが、人が住んでいるということの意味を考えなければなりません。実は、我が国の離島振興の歴史の中には、結果として無人島を造り出してしまったという悲しい経験が2回あります。

 一つは、1969年の東京都の八丈小島であり、もう一つは、翌1970年の鹿児島県の臥蛇(がじゃ)島であります。

 八丈小島は、人口流出による過疎化、生活条件の厳しさ、生活水準格差の拡大、子弟の教育に対する不安などを理由として、東京都の援助を受けて、91人の住民が集団離島を行い、その後は野生のヤギだけが住む島となってしまいました。

 一方、臥蛇島は、築港の困難さ、人口減少、航路の不安定性などにより、国策として無人島となり、その後は野生のシカの棲み家(すみか)になってしまいました。

 実はかつて有人離島であって、着岸することが可能であった島が無人化することは、野生動物のみならず、外国からの不法入国の拠点にもなり得るのではないかという指摘もあります。こうした事例だけを考えてみても、島に人が住んでいることの意味、そのための振興施策の重要性は十分に理解いただけるのではないでしょうか。

青ケ島の「あおちゅう」

 

「星の箱船」

 ほとんど仕事上のつながりだけでありましたが、「一番お勧めの島はどこか?」と尋ねられた時に真っ先に挙げさせていただくのが、東京諸島の青ケ島であります。東京港の南358キロ、八丈島の南65キロに存在する周囲9キロの火山島です。

 夜間に民宿から一歩外に出て海の方を眺めると、何のあかりも見ることができない、つまり夜空の星しか見えないのであります。アーティストの篠原ともえさんは、母方の故郷である青ケ島を「星の箱船」であると言っておられます。言い得て妙である表現だと感じます。

 この青ケ島は、今から約240年前の1785年に天明の大噴火を起こしております。この時、約200人の青ケ島住民が八丈島に避難・移住し、青ケ島は一時、無人島となりました。

 しかし、住民たちは青ケ島に帰ることをあきらめず、苦難の末、約40年後の1824年に「還住」を果たしました。この「還住」という言葉も柳田国男の命名であります。2013年まで八丈島と青ケ島を結ぶ定期船「還住丸」にその名を留(とど)めておりました。

 この「還住丸」は、運航ダイヤ上では所要2時間30分となっておりましたが、なにしろ黒潮を越えていく船ですから、その乗り心地たるや、これも筆舌に尽くし難いものがありました。青ケ島の最大の特産品は青ケ島焼酎「あおちゅう」でしょう。火山の地熱で蒸した「くさや」が柔らかくて臭みもとれており、筆者としては一番の好みです。青ケ島に行かれる際にはぜひ、夜空の星に加え、「あおちゅう」「くさや」を試してみてはいかがでしょうか。

島民の知恵を生かす

 民俗学者であり、離島振興の父といわれている宮本常一は、離島振興法は住民の知恵を活かすことができる法律であるべきだ、と言われました。「離島振興法ができたから島がよくなるのではない。島をよくしようとするとき離島振興法が活きてくる」と主張されたのであります。

 2002年の法改正時のキーワードは「価値ある地域差」でした。離島地域の抱えるハンディを逆手に取り、セールスポイントにしていこうというものでありました。例えば、風や波といった「離島苦」を自然再生エネルギーとして糧に変えていこうという試みなどが議論されたわけであります。こうした取り組みの中には、すでに〝果実〟として結実しているものも見受けられます。

 幕末から明治期の思想家で、慶応義塾の創立者の福沢諭吉の言葉に「一身独立して 一家独立し 一家独立して 一国独立す」というものがあります。その「一身の独立」のために「学問をすすめる」というわけであります。

 地域振興に関していえば、「地域創(づく)りは人造り、人造りは自分作り」ということになります。離島地域に限らず、地域の振興のためには、地域住民の一人一人が自分を磨くことが大切であると思います。

 そのことによって、地域の歴史的・文化的遺産(ポテンシャル)や地域に根ざした「価値」を見いだすことができるのではないでしょうか。筆者が国交省の離島振興課長時代に島根県西ノ島町(隠岐諸島)でお目にかかった元教員の女性の言葉が今でも忘れられません。「教師を辞めてから毎年、海外旅行に出かけていますが、いつも帰ってきた時に思うことが一番いいのが我が島だということであります」

 2011年9月に国交省国土政策局長に任命されました。今度は担当の局長として、離島振興法の改正・延長に関与することになりました。この時は同法の60年目の節目、人間でいえば還暦を迎えての改正でありました。

 かなり早い段階から各党が一堂に会しての議論が交わされ、その結果として抜本的かつ大幅な改正が行われました。一番のポイントは離島活性化交付金が創設され、ハードからソフトへの転換が具体的に踏み出されたことではないでしょうか。

 生まれ育って住み続けたいと思っている離島地域に、あるいは希望を持って移り住んできた離島地域に、未来永劫(えいごう)誇りを持って住み続けていただくためには、何が必要であるのか、法の存在自体が離島地域の住民の生活の礎であるという信念の下に、こうした面での拡充が図られていかなければなりません。

沖縄県南大東島の北側に位置する南大東漁港(提供:南大東村)

 

島があることによる「国益」

 「国益」の話に立ち返らせていただきます。我が国が漁業管轄権や海底資源の調査・採掘権などの主権的権利を有する排他的経済水域は約447万平方キロメートルと、カナダ(約470万平方キロメートル)に続き、世界第6位の広さを誇っております。ちなみに、1位から4位までは、アメリカ、オーストラリア、インドネシア、ニュージーランドです。

 我が国の国土面積は約37万平方キロメートルでありますから、排他的経済水域の面積は国土面積の約12倍です。そして、何よりも重要なことは、こうした広大な排他的経済水域は14125の島々により、もたらされているということであります。

 このような問題意識を突き詰めて考えていきますと、この二十数年間に起きているさまざまな事態は極めて憂慮すべき事態と言えないでしょうか。

 北朝鮮の不審船問題にはじまり、韓国との間の竹島問題、中国との間の尖閣諸島問題、小笠原諸島沖の珊瑚(さんご)礁乱獲問題、そして沖ノ鳥島の国際的な取り扱いの問題などなど、枚挙にいとまがないと思われます。このうち、沖ノ鳥島を基点とする排他的経済水域は約40万平方キロメートルということでありますから、これは我が国の排他的経済水域全体の約1割であると同時に、我が国の国土面積にほぼ匹敵しているなど、大きな意義を有していると言えます。

ハードからソフトへ転換

 筆者は2013年7月に国家公務員を定年退職しましたが、その後しばらくして、2015年4月に全国離島振興協議会に奉職させていただくことができました。その当時は、国境離島を取り扱う新法の制定に向けての運動が活発化している最中でありました。

 もともとは、2012年に改正された離島振興法の附則第6条(特に重要な役割を担う離島の保全及び振興に関する検討)に端を発する問題でありましたから、筆者としても責任の一端を感じながら、真摯(しんし)に取り組みさせていただいた、と思います。

 そして成立させていただきましたのが、「有人国境離島地域の保全及び特定有人国境離島地域に係る地域社会の維持に関する特別措置法」であります。

 従来の離島振興策は、港湾や道路、船舶の整備など、ハード面における整備に重点が置かれてきました。もちろん、「ハードからソフト」への政策転換も徐々に浸透しつつありますが、人が住み続け、多様な人材がいる社会を造るためには、雇用を創り、若い人を育てなければなりません。

 こうした目的から、離島振興法に加えて、特定有人国境離島地域についての特別な支援策が措置されることになったわけであります。この法律には、航路・航空路の運賃や輸送費の補助なども含んでおりますが、一番の目的は、雇用を創り、有人国境離島の人口を増やすことであります。

 そのためには、新たな業を起こすことはもちろんのこと、観光振興をはじめとする交流人口の拡大にも注力していかなければなりません。

 さらに、2022年11月、自身3度目の経験となる離島振興法の改正・延長に、今回は離島市町村の立場を代弁させていただく立場から立ち会わせていただくことができました。振り返れば、1998年6月に旧国土庁地方振興局離島振興課長に着任させていただいてから四半世紀余り、折に触れ胸に刻んできたさまざまな課題について、盛り込んでいただいたことにあらためて感謝の気持ちを示したいと思います。今後は、離島振興法と有人国境離島法が車の両輪として、離島地域全体の価値ある発展に寄与することを期待している次第であります。

「百年の計」で海と接する

 2011年の東日本大震災、そして2024年幕開けの能登半島地震などによって、私どもは海の怖さについて、あらためて痛感させられることになりました。

 しかしながら、元来、海は人間にとって貴重な資源の宝庫であり、そのもたらす恵みは、海底資源にいたるまで計り知ることはできません。私ども人間はすべからく、生きとし生けるものによって生かされております。海の恵みはその中の一つであるとともに、無限の可能性を秘めたものであると考えております。

 「百年の計」という言葉がありますが、一世代30年と考えますと、100年後は曾孫(ひまご)の時代であります。今、目前に迫る問題、自分の生きている間に結論が得られるとは思えない問題であっても、曾孫の世代のために手を打ち始めることが肝要ではないでしょうか。

 例えば、水産資源を涵養(かんよう)するための森林整備などは、食料安全保障を持ち出さなくても、重要だと思われます。一方で、排他的経済水域における権利の主張と実践は、それほど猶予のある問題ではなくなってきているのかもしれません。このような海に四方を囲まれている日本に住んでいることに対し、一人一人が少しでも日本人=島人としての自覚を持ち、離島への関心を高めていただくことを願わずにはいられません。