ゴーン氏逃亡とリスザルの楽園が示すもの 日本が犯罪人引渡条約を結べない理由

By 佐々木央

東武動物公園「リスザルの楽園」でカピバラの背に乗るリスザル

 日産自動車のカルロス・ゴーン前会長がレバノンに逃亡した。日本はレバノンに、ゴーン前会長の身柄の引き渡しを求めているが、両国は「犯罪人引渡条約」を結んでいない。条約もないのにレバノンが自国民のゴーン氏を引き渡す可能性は低く、日本で裁くことは難しくなったと報じられている。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 逃亡した容疑者や被告の引き渡し条約を、日本は米・韓の2カ国としか結んでいない。米国のように百カ国以上と結んでいる国もある中で、日本の締結国は国際的に極めて少ないという。

 理由として、日本は島国で出入国管理体制が他国と比べ厳格であるため、外国の犯罪者が逃亡してきたり,日本の犯罪者が国外へ逃亡したりする事例が少ないから、などと説明される。さらに、日本が死刑制度を存置し、執行を続けているため、国際的な多数派である死刑廃止国にとって、犯罪者を引き渡すことには抵抗が強いという理由も指摘されている。

 死刑制度が現実に容疑者引き渡しの壁となったケースがある。埼玉県宮代町の東武動物公園を訪ねたときに、初めてそれを知った。

 そこに「リスザルの楽園」と呼ぶ施設がある。来園者が通り抜けできる大きなケージで、その名にふさわしく、たくさんのリスザルが樹間やロープを跳び回っている。ペリカンやカピバラも同居していて、時にはリスザルがカピバラの背中に乗って遊ぶ。

 入り口に、由来に触れた文章が掲げられている。リスザルたちを飼っていた女性が「不慮の事件に遭遇し早世した」。それを引き取ったのが始まりだったという。文章の書き手は亡くなった女性の父親だ。

 「(娘は)様々な種類の猿を集め、その数は100匹を超えるほどでした。中でもリスザルにはことさら深い関心を寄せていました(中略)近い将来に猿たちの生育と生態観察を目的に巨大なドーム型飼育場の建設計画に奔走中でした」

 「幾許(いくばく)かその夢を叶(かな)えることが父としての努めかと存じ、園長先生に訴え、又、東武動物公園関係者の方のご尽力により」引き取ってもらった。リスザルたちの幸せを願う言葉で、文章は終わっている(ルビ以外の表記は原文のまま)。

 「不慮の事件」とはなんだろう。

 当時の新聞記事によると、スタイリストだった女性は1992年4月、東京・原宿の自宅マンションで刺殺された。4カ月後、警視庁は女性と付き合いのあったイラン人の男の逮捕状を取る。男は事件後に出国していたので国際手配された。

 事件に関する報道はここでいったん途絶える。

 次に記事になるのは発生から1年半後。スウェーデンで身柄拘束されたイラン人が手配の男ではないかとする内容で、スウェーデンに指紋を送って確認中と報じられた。

 「手配の容疑者と確認」という記事はその1週間後。しかし、スウェーデンと日本は「犯罪人引渡条約」を結んでいない。個別交渉になったが、難航した。死刑制度が壁になったのだ。

 スウェーデンは死刑を廃止している。日本の刑法は当時、殺人罪の刑として「死刑または無期もしくは3年以上の懲役(現在は5年以上の懲役)」を定める。日本に容疑者を引き渡せば、死刑になる可能性があると、スウェーデン側は考えた。スウェーデンの法律では「引き渡された者が、その罪を理由として死刑に処せられてはならない」としている。

 たとえ、そのような法律がなくても、引き渡した結果が「死」もあり得るとすれば、人権上問題だと、ふつうは考えるだろう。

 日本の捜査当局はスウェーデンに人を派遣して説明した。この事件の場合、過去の判例や一般的な量刑基準から、死刑判決が言い渡される可能性はほとんどない。だから引き渡してほしいと。だが、裁判は裁判所の専権であり、捜査当局が命を絶対的に保証することはできない。

 結局、男は日本側が提供した証拠に基づき、スウェーデンで起訴され、95年2月、懲役10年の判決を受けた。

 娘を愛した父親は、日本でこの裁判を傍聴する機会さえ得られなかった。娘の死に関わる真実を知る機会は失われた。

 残されたリスザルの子孫たちは、楽園で自由に遊んでいる。父の無念さを思った。

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