「脱はんこ」は最優先課題なのか コロナ禍の今、菅政権がやるべきこと

By 尾中 香尚里

規制改革推進会議であいさつする菅首相(右手前)=7日午前、首相官邸

 菅義偉政権の発足から16日で1カ月が過ぎた。いまだ国会での所信表明演説すら行われていない異常な状況だが、当事者たちは国会のチェックを受けることなく、行政単体で「改革」なるものを次々とぶち上げ続けている。「やってる感」「永遠の道半ば」と揶揄された安倍晋三前政権の轍を踏むまいと考えているのか、とにかく「スピード感」を強調して「目に見える成果」を急いでいるようだ。それが悪いというわけではない。だが、問題はその中身だ。新型コロナウイルス対策をはじめ、今緊急になすべき課題に、地に足をつけて取り組んでいるという実感が乏しい。その最たるものが「脱はんこ」、少し丁寧に言えば「行政手続きにおける押印廃止」である。コロナ禍で多くの国民が苦しんでいる時に、新政権が最初に取り組むべき重要課題の一つが「脱はんこ」なのか。「そこじゃない」感が拭えない。(ジャーナリスト=尾中香尚里)

 ▽政権発足一カ月に花添えた「脱はんこ」

河野太郎行政改革担当相

 「脱はんこ」の旗振り役は、河野太郎行政改革担当相だ。政権発足からわずか1週間後の9月23日、河野氏は政府の「デジタル改革関係閣僚会議」で、行政手続きにおける押印について「すぐになくしたい」と発言。「どうしてもはんこを残さなければならないような手続きがあれば、9月中にお届けを」と、押印を存続させる理由などを回答するよう求めたという。この会議から1週間という短期間での回答を求めたことになる。かなりの急ぎようだ。

 こうした方針は、今月7日に行われた政府の規制改革推進会議(議長・小林喜光三菱ケミカルホールディングス会長)の会合でも取り上げられた。会合で菅首相は「書面、押印、対面主義の見直しを抜本的に進めている」と述べ、河野氏の押印廃止方針に言及。河野氏は16日の記者会見で、約1万5千種類ある手続きのうち「99・247%は廃止、あるいは廃止の方向で検討という回答を(各府省から)いただいた」と胸を張った。

 まさに「政権発足1カ月に花を添えた」格好だが、やはり分からない。これが本当に、7年8カ月ぶりに誕生した新政権に、私たちが「まずやってほしい」と求めたことなのだろうか。

 なぜいきなり「はんこ」が注目されたのかといえば、それは菅政権が発足早々「デジタル化」を前面に打ち出しているからだ。菅首相は就任記者会見(9月16日)で、霞が関のデジタル化関連政策を取りまとめて強力に進める体制として「デジタル庁の新設」を打ち上げた。

 デジタル化とはすなわちペーパーレス化であり、その流れで「行政文書への押印廃止=脱はんこ」が浮上したと言っていい。河野氏も自身のブログで「押印がいらなくなれば、プリントアウトする必要もなくなります。その結果、現在、書面やファクスによる報告を求めている行政の手続きもオンライン化することができるようになります」と、そのメリットを強調している。

 すでに仙台市や北九州市など多くの自治体で「脱はんこ」に追随する動きが出たほか、上川陽子法相が婚姻届と離婚届の押印廃止を検討する考えを示す(9日)など、国民にとっても身近な問題としてじわじわと浸透しつつあるように見える。菅政権は年内に関係省令などを改正し、来年の通常国会での関連法案提出を目指すという。

マイナンバーカードの手続きに訪れた住民らで混雑する東京都品川区役所のロビー=5月11日

 ▽デジタル化の遅れ、原因は「はんこ文化」?

 しかし、私たちがこの間、政府の「デジタル化の遅れ」を痛感させられた場面は、もう少し違うところにあったのではないか。それは特にコロナ禍において顕著だった。

 例えば、1人10万円の特別定額給付金の支給手続きである。私たちは給付金の支給を受けるために、まず一定期間内に申請手続きをすませなければならなかった。申請には郵送と、マイナンバーカードを利用したオンラインによる手続きの二つの方法があり、政府は「迅速な給付につながる」としてオンライン申請を推奨した。

 しかし、そもそもマイナンバーカードの普及率が2割を切っており、多くの人はオンラインで申請できる前提がない状況だった。申請そのものにも多くの不備が見つかり、対応する自治体職員の負担が増加。ついには「急いでいる人はオンラインではなく、郵送で申請して」と呼びかける自治体が続出した。

 オンライン申請より郵送の方が、給付金を早く受け取れる。これでは本末転倒である。

 行政内部の手続きにおいても同様だった。コロナ禍の初期には、病院などからの新規感染者の発生届がファクスで保健所に送られていたことが分かり、国民をあ然とさせた。政府は5月、感染者の情報の一元的な管理を目指し、新たな情報把握システム「HER-SYS」の運用を始めたが、自治体によっては切り替えに時間がかかり、全国的な情報集約システムの確立に大きく遅れをとった。そう言えば、感染者の濃厚接触者を把握するために運用を始めたスマートフォン向け接触確認アプリの話題も、最近は聞かなくなった。

 ここで喫緊の課題になっているのは、国民のための施策を行うにあたって行政手続きを担うシステム基盤の脆弱さである。

 持病を理由に首相の座を退いた安倍晋三氏の後を受けた菅首相は、官房長官としてこうした行政の対応のまずさを目の当たりにしたはずだ。これは個々の行政マンの能力の問題で片付けられるものではなく、システムの不備であることも、きっと十二分に認識していたはずだろう。だからこそ菅首相は、就任後まず「デジタル化」を急ぐ必要性をぶち上げた。きっとそうに違いない-。

 そんなごく淡い新政権への期待を、「脱はんこ」は見事に吹き飛ばした。

マスク姿で通勤する人たち=4月8日、東京・品川駅前

 ▽コロナ対策につながるピンポイントの改良を

 今回のコロナ禍では、企業の在宅勤務(テレワーク)が進むなか「書面にはんこを押すためだけに出社する社員」の存在に焦点が当たったことは確かだ。コロナ対策のみならず、遅れに遅れた行政のデジタル化に向けて行政文書の「脱はんこ」を図ることを、完全に間違いだとは言わない。だが、役所のはんこ文化がなくなれば、定額給付金の支給が迅速に行われたり、新規感染者数の集計が速やかに行われ、国民に正しい情報提供がなされたりするのか。その道筋が全く見えない。

 菅首相は、就任記者会見ではマイナンバーカードの普及に言及していたはずだ。ここではその是非は問わないが、少なくとも今回露呈した定額給付金の給付遅れに関しては、まだそちらの方が現在の課題として適切だろう。なぜはんこなのか。

 今はアナログな行政文化全般に手をつけて収拾がつかなくなるようなことをするより、コロナ対策で目詰まりを起こした行政システムに対し、ピンポイントで直接的な「改良」を行うことの方に集中すべきではないか。

 これは菅政権に限らず、小泉政権の郵政民営化の当時から20年来続く政治の傾向だが、何か施策を打つ際に、その効果やリスクを一定程度計算して、最も効果的な方法をとるといったことが、著しく軽視されている気がしてならない。ある種の「気分」で適当な「敵」をつくって祭り上げ、それを倒すことで何かを改革した気になる。こういうことの繰り返しだ。

 「やってる感」の安倍政権に対して、もしかしたら菅政権は「やった感」を演出しようとしているのかもしれない。だが、もういい加減、そういう政治からは脱却すべきではないか。正直言って、平成の30年間で与野党を問わずこういう政治を散々見せられ、筆者はもう飽きている。

 「脱はんこ」とか「デジタル庁」などは、そもそも政治の「目的」ではない。行政システムの基盤を整える実務であり、政策実現に向けた「手段」であるはずだ。そんなものは国民に「やります」と誇示する類いのものではない。

 例えば自動車メーカーが、商品のクルマではなく「いいクルマを作るために生産工程をこう変えました」ということばかりを強調していたら、ユーザーはどう思うだろうか。そこも大事かもしれないが、ユーザーが求めるのは、あくまでいいクルマである。菅政権にはどうか、そのことを履き違えないでもらいたい。

 ここで原稿を書き終えようとしたら、河野氏が16日の記者会見で、こんなことも述べていたのに気がついた。

 「千枚通しで穴を開けて、こよりで留める。長年の慣行がございましたが、合理的ではないなということで、廃止されることになりました」

 閣議で使われる書類について、細い紙をより合わせた「こより」でとじる慣行を廃止すると表明したのだ。

 なるほど、「改革」は良いことなのだろう。だけどやっぱり「そこじゃない」感が拭えない。

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