幕府軍で奮闘も過酷な運命…幻の鶴田藩、子孫らが134回目の慰霊祭

礒部修作
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 幕末に津山に現れ、わずか4年ほどで姿を消した鶴田(たづた)藩。幕末から明治維新にかけて過酷な運命をたどった藩士らを追悼しようと、子孫らが14日、藩主の居館があった西御殿跡(岡山県津山市桑下)で慰霊祭を開いた。1890(明治23)年に建立した「殉難碑」前での慰霊祭は毎年4月、戦時中も休むことなく続け、今年が134回目。

 鶴田藩のルーツは、親藩だった浜田藩(島根県浜田市)。1866(慶応2)年の第2次長州戦争で、幕府軍として長州藩山口県)と戦って敗れ、残った武器が敵に渡るのを恐れ、浜田城を焼いて退却。反撃の機会をうかがったが、藩主の松平武聡(たけあきら)の兄、慶喜が15代将軍に就くことになり、幕府から攻撃の許しを得られなかった。このため、藩士や家族らは浜田から約300キロの道のりを1カ月以上かけて移動。藩の飛び地があった津山市に移り住み、藩名を鶴田藩と改めた。藩の石高は6万1千石から8300石に激減し、失業状態の藩士らは貧困に苦しんだとされる。

 慰霊祭を開いたのは藩士の子孫らでつくる「美作浜田会」で、会員数は全国に77人。浜田藩士であった先祖を誇りに思い、親から子へと7世代にわたって引き継いでいる人もいる。津山市内にある「鶴田藩共同墓地」の墓石は、浜田に向けて建てられている。

 藩士らは幕末から戊辰戦争までの激動の時代に、長州藩や薩摩藩鹿児島県)などの「官軍」と戦い、「賊軍」とされて亡くなった。そうした藩士らを追悼するため、建立した石碑には「殉難」と刻まれており、関係者らの無念な思いがにじんでいる。

 今年の慰霊祭には約45人が出席。浜田市からは久保田章市市長が車で約3時間かけて駆けつけた。コロナ禍の影響もあって2017年以来の参列で、取材に対して「幕末の浜田、そして津山とのつながりは浜田の歴史を語るうえで欠くことのできない重要な事柄。多くの市民が浜田と津山の関係に思いをはせてもらいたい」と呼びかけた。

 地元の津山市議会の中島完一議長が「先人から受け継いだ歴史と伝統が、子どもたちにも引き継がれることをせつに希望する」と話せば、美作浜田会の大橋常男会長(84)は「慰霊祭は続けていく。継続は力なり」と応えていた。

 同会事務局長の佐野綱由さん(74)は「私たちは常に浜田のことが頭の中にある。久保田市長ら浜田市の人たちと顔を合わせ、旧交を温められたのが大変うれしかった」と話していた。(礒部修作)

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