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プロ野球1980年代の名選手

小林繁 “江川の犠牲者”と別次元にいた虎のサイドスロー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

わずらわしかった“初対決”


阪神・小林繁


 1980年8月16日、雨の後楽園球場。

「足と腰、つまり下半身でコントロールするタイプ。だから雨と人工芝は苦手」と自己分析する阪神の小林繁に、ライバルの巨人だけでなく、雨も、人工芝も立ちふさがっていた。

 それだけではない。いや、もしかすると、この日の敵は、そんなありふれたものではなく、このサイドスロー1人を苦しめ続けてきた「わずらわしさ」だったのかもしれない。

 この日、巨人の先発は江川卓。その入団における“事件”については江川の章で触れた。V9が終わって一転、ふたたび巨人をリーグの頂点へ導いたサイドスローは江川との“トレード”で阪神へ移籍して、新天地1年目の79年は巨人戦8連勝を含む22勝を挙げて初の最多勝に輝き、巨人時代の77年に続く2度目の沢村賞にも。この“悲劇のヒーローによる見事な仇討ち”に、多くのファンは溜飲を下げたことだろう。そして、この日が“悪役”江川との初対決となった。

 一方、“悲劇のヒーロー”は、宮崎キャンプへ向かう羽田空港でトレードを告げられ、会見では「同情されたくない」と言い切った。巨人に強かったことは間違いない。それも、「やるだけのことはやって黙っていたかった。どうだ見たか、なんて大声で吠えないでね」。

 初対決でも、敗れたが淡々としていた。

「いつかは通らなければならない道だった。負けはしたけど、これでスッキリした、僕と関わりのないところで、小林と江川、小林と江川と騒がれて、わずらわしくてたまらなかった。僕の野球人生についてまわる、そのわずらわしさから、これで解放された。これで普通の投手に戻れる。あの子(江川)が勝って、よかったんじゃないの? だって、あの子が負けたら、(江川が)また何を言われるか分からんもの。かわいそうだよ」

 巨人との対戦で燃えたのは、意趣返しのようなことではなく、もっと単純だったのかもしれない。特に楽しんだのは、“一本足打法”の王貞治との対戦だった。体をカクカクさせながらの独特な変則サイドスローは、「実は王さんが作ってくれたようなもの」。プロ1年目に練習で王から「タイミングが合わせづらい。打ちにくいんだ」と言われて、「これほどの打者でもタイミングがズレたら打てないのかと思ったんです。球威とかコントロールより、いかに打者のタイミングを外すか。打者が合わせづらい“間”をフォームの中で、どれだけ長く作るかですね」

 79年7月8日の後楽園球場。王との対戦で、王が片足を上げずに打ったことがあった。

「尊敬する王さんに一本足を捨てさせた。それが僕の誇りです。2本ヒットは打たれましたが、勝ったと思いましたね。でも、チームのためなら自分の誇りを捨ててでも勝利に貢献しようとする。王さんのすごさも感じた」

 江川の犠牲者。そんなところとは、まったく別の次元にいたのだ。

13勝も電撃引退


 2ケタ勝利は巨人がセ・リーグの王座に返り咲いた76年から、阪神へ移籍して以降も続いた。80年は15勝、翌81年には16勝。だが、82年は11勝と勝ち星を減らす。そして迎えた83年のシーズン前、「15勝できなかったらユニフォームを脱ぐ」と宣言。

 13勝を挙げたが、2ケタ勝利が始まって以来、初の負け越しとなる14敗を喫し、黒星はリーグ最多だった。そして有言実行。あっさりと現役を引退した。

「どうやって投げていいのか分からなくなった。もう力がなくなってる。技術も落ちてる。気力も落ちてる。納得できないピッチングにしがみついているわけにいかないという気持ちになったんだ」

 そう振り返ると、そして続けた。

「こういう運命だったのかもしれんね。どうしても全力で投げなければならないし。小林は投げ終わったあとに帽子が落ちないと一生懸命に投げているようには見えん、と言われてるからね」

 そう言って笑った。

写真=BBM
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