【解説】 9/11から20年、アフガニスタンで学ばなかったかもしれない教訓

フランク・ガードナー、BBC安全保障担当編集委員

Camp X-Ray

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画像説明, グアンタナモ米軍基地での収容者の取り扱いが原因で、アメリカを敵視するようになった人たちも大勢いる

世界各地で20年続いてきたテロリズムとの戦いにおいて、私たちは何か教訓を学んできたのだろう。何がうまくいって、何がうまくいかなかったのか。そして、過激派勢力アルカイダをかくまった武装勢力が再びアフガニスタンを支配するようになった今、私たちは2001年9月11日の朝より、私たちはいくらかでも賢くなっているのだろうか。

アメリカ本土に対する史上最悪のテロ攻撃に揺さぶられていたアメリカでは、世界をくっきり白黒に分けて見る人たちがいた。つまり世界は善人と悪人に分かれていると。9/11の攻撃から9日後、当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領はこう言った。

「すべての国、すべて地域は今、決断しなくてはならない。我々の側に着くのか。そうでなければテロリストの側に着くということだ」

動画説明, 「9/11」 アメリカと世界を変えた102分間

いわゆる「対テロ戦争」が宣言された。それはアフガニスタン侵攻、イラク侵攻へと続き、過激派勢力「イスラム国(IS)」の台頭につながり、やがてイランが後押しする私兵組織が中東各地に拡散する事態を呼びこんだ。この戦いで、兵士か民間人かを問わず、多くの命が失われた。

テロリズムは排除されていない。欧州の主要国はどこも近年、攻撃の対象になっている。しかし、成功したこともある。今のころ、9/11ほどの規模の攻撃は起きていない。アフガニスタン国内にあったアルカイダの基地は破壊され、アルカイダの指導者はパキスタンで殺害された。ISが一方的に樹立を宣言した「カリフ制」国家は一時、シリアやイラクを広範囲に脅かしたものの、それは解体された。

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これから並べる5つの項目には、もちろん異論もあるだろうし、決して網羅的ではない。このテーマを抱えて中東、アフガニスタン、ワシントン、グアンタナモ米軍基地を取材してきた、私自身の所見だ。

動画説明, ブッシュからバイデンへ……アフガニスタンをめぐる1つの戦争と4人の米大統領

1. 最重要な情報は共有する

手掛かりは複数あった。しかし、まだ時間に余裕のあるうちには、誰も点と点をつなげて線にしなかった。米連邦捜査局(FBI)と米中央情報局(CIA)というアメリカの2大情報機関は、9/11へ至る数カ月前から、何らかの策略が進行中だと気づいてはいた。

しかし、アメリカの国内を担当するFBIと、国外を担当するCIAは、その強烈なライバル関係ゆえに、それぞれの知見を相手に共有しなかった。

9/11独立調査委員会報告書は、2つの情報機関による数々の間違いを徹底的に検証した。以来、かなりの改善がされている。

米ヴァージニア州にある国家テロ対策センター(NCTC)を2006年に訪れた際、私は米政府の17の情報機関が毎日どうやって情報を共有するのか、そのやり方を見せてもらった。

The city of Manchester mourned bombing victims in 2017

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画像説明, 2017年5月に英マンチェスターのコンサート会場で起きた爆弾攻撃の被害者を追悼する市民

イギリス政府も同様に、情報集約の拠点、統合テロリズム分析センター(JTAC)を作った。保安局(MI5)、秘密情報部(MI6)、国防省、運輸省、保健省などの専門官が、ロンドンのテムズ川沿いの庁舎に集まり、イギリス市民に対する国内外のテロの脅威を常時、検証し続けている。

しかし、仕組みは万全ではない。JTAC設立から2年後の2005年には、アルカイダがイギリス国民を使い7月7日にロンドンで連続爆発事件を起こし、50人以上を殺害した。

2006年8月にはロンドン警視庁がパキスタンの協力を得て、ロンドンからアメリカへ向かう複数の旅客機にアルカイダが液状爆弾を持ち込んで爆発させようとした計画を、未然に阻止することに成功した。しかし、2017年のイギリスでは、ロンドンとマンチェスターで無差別攻撃が相次いだ。

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つまり、どれだけ情報収集活動が優れていて、情報をしっかり共有したとしても、やるべきタスクの優先順位の付け方を間違えば、攻撃を防げなくなる。

パリでは2015年11月の連続襲撃で130人が死亡した。事件の裁判は今月8日に始まったばかりだ。この事件は、欧州各国の当局がその都度重要な情報を的確に、国境を越えて共有できなかったことが、一因とされている。

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2. 任務を明確にし、気が散らないようにする

なぜアフガニスタンでタリバンが復権したのか。この理由は様々だが、特に顕著なものがひとつある。つまり、2003年の米軍主導によるイラク侵攻だ。この悪手のため、アメリカを中心に国際社会はアフガニスタン国内の様子に集中できなくなった。アメリカの気が散ってしまったのだ。

それまで米軍や英軍の特殊部隊は、多くのアルカイダ工作員の追跡に成功し、アフガニスタンの協力勢力と連携してタリバンを封じ込めていた。しかしその多くは、イラク戦争の開始によって、アフガニスタンからイラクへ転属させられてしまった。

これによってアフガニスタンでは、タリバンをはじめ様々な勢力が息を吹き返し、前より強力になって復活した。私がアフガニスタンのパクティカ州にある米歩兵部隊の前線基地を訪れたのは2003年11月だったが、そのころアメリカはすでにアフガニスタンでの活動を「忘れられた作戦」と呼んでいた。

アメリカがアフガニスタンで開始した軍事行動の目的は、当初は明確で、的確に実行されたのだが、このことは忘れられがちだ。9/11攻撃を計画したアルカイダ関係者の引き渡しを当時のタリバン幹部が拒否したため、アメリカは反タリバン勢力の北部同盟と手を結び、タリバンとアルカイダをアフガニスタンから追い出すことに成功した。

しかしその後から、アメリカはアフガニスタンで何が任務なのか、目的があいまいになり、その行動は複数の方向へ分散していった。

この間、ほとんどのアフガニスタン人の生活は改善した。しかし、汚職と無駄使いによって、「国造り」を名目につぎ込まれた数十億ドルが失われてしまった。

3. パートナー選びは慎重に

イギリスにとってアメリカは最大の同盟国だ。2003年のイラク侵攻でイギリスはアメリカに連携した。そのため、その後のイラク占領期間においてイギリスはほぼ常に、アメリカの重要決定に二次的な形でパートナーとして関わったことになる。

サダム・フセイン政権を倒した後、ただちにイラク軍を解体してはならない、あるいはバース党員をすべて政府の役職から排除してはならないという、必死の呼びかけは、すべて無視され、あるいは却下された。その結果、にわかに無職となって巨大な不満を抱えるイラク軍関係者や情報職員が、狂信的なイスラム聖戦主義者と手を結ぶという、壊滅的な連携が成立してしまった。これが後の「イスラム国」だ。

9/11の後に世界を襲った集団的パニックの結果、米英両国の情報機関は、とんでもない人権侵害を続ける独裁政権とも協力する羽目になった。この影響もめぐりめぐって、身から出た錆(さび)となって米英に返っていった。

たとえば、2011年にモアンマル・カダフィ大佐によるリビアのおぞましい政権が打倒された後、英MI6幹部がリビアの情報機関幹部にあてていた機密書類が、報道陣によって発見された。それによるとMI6はカダフィ政権を相手に、イスラム主義者の身柄引き渡しと、それに伴う逮捕や不当な取り扱いを話し合っていたことが分かっている。

暴力的なイスラム聖戦主義は現在、中東からアフリカの貧困地域や統治が不安定な地域に移動し、激しさを増している。そうした地域で欧米各国が現地の誰と手を組めばいいのか、判断が難しくなっている。

4. 人権を尊重する、さもなければ道義的な足場を失う

中東の人たちから私は何度も何度も、同じことを言われてきた。「それまでは、アメリカの外交政策は気に入らなくても、アメリカの法治主義はずっと尊敬していた。グアンタナモまでは」と。

容疑者を「戦場」で手あたり次第に拘束し(中には懸賞金目当てで売られてた無実の民間人もいた)、おむつとゴーグルと耳あてをつけてぐるぐる巻きにして、地球の反対側にあるキューバの米軍基地に連行するというアメリカのやり方は、アメリカと、そして欧米の評判を、言いようがないほど破壊した。

US troops in Afghanistan in 2003

画像提供, Frank Gardner

画像説明, 米軍は2001年のアフガニスタンから速やかにアルカイダとタリバンを排除した。なのになぜ戦争はだらだらと続いたのか。写真は2003年、アフガニスタンで筆者撮影

公判なき無期限勾留など、中東の独裁国家のやり口だと思っていた中東の人たちにとって、まさかアメリカがそんなことをするとは予想していなかった。

さらにひどいことに、「強化尋問」と呼ばれた手法が露呈した。アメリカにテロ容疑者とされた人たちは、明確な司法手続きもないままアメリカ国外の、場所もはっきりしないCIAのいわゆる「ブラックサイト」に人知れず移送され、そこで水責めによる尋問など様々な不当な扱いを受けているが発覚したのだ。バラク・オバマ氏は大統領に就任すると、水責めによる尋問をやめさせた。

しかし、アメリカの評判はすでに損なわれていた。

5. 出口戦略を計画しておく

9/11以前に欧米が実施した外国への介入は、9/11以降に比較すれば、速やかで簡潔なものだった。シエラレオネやコソヴォ、さらには1991年の「砂漠の嵐作戦」、つまり第一次湾岸戦争も、終わりがはっきりしていた。

しかし、米軍主導によるアフガニスタンとイラクの侵攻は、「永遠の戦争」と呼ばれるようになってしまった。2001年や2003年の時点で関わっていた人で、20年後も駐留が続いていると予想して人など、いなかったはずだ。

単純に言えば、欧米は自分たちが何に手出しをしようとしているのか理解していなかったし、現実的な出口戦略も用意されていなかった。

2001年に欧米がアフガニスタンからタリバンとアルカイダを追い出さなければ、9月11日以降も攻撃が続いたはずだ。それは疑いようがない。アフガニスタンにおける対テロ作戦は、決して失敗したわけではない。ただし、国造りの作戦は完了しないまま終わった。

そして現在、多くの人の目に強烈に焼き付いている映像は、カブール空港から飛び立つ米空軍C17輸送機を取り囲み、必死に走るアフガンの人たちだ。彼らは、欧米がほとんど見放したに等しい国から脱出したかったのだ。