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尾崎世界観さんが読んできた本たち はやく子供を終わらせたかった(前編)

「自分はヤバイ」と思う子供だった

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

 小学校に入る前から低学年くらいまで、出掛けるたびに親に本を買ってもらっていました。常に、親に何か買ってもらいたい気持ちがあったんです。親も「本だったらいいよ」と言ってくれるので、書店の入り口にある、ぐるぐるまわるラックに入った絵本のシリーズを買ってもらっていました。

 外に出掛けた証拠を何か持って帰りたい気持ちもあったし、親に何か、自分に気持ちを注ぐということをしてもらいたかったんでしょうね。本を読むと親も喜んでくれるから、いいことをした気分にもなっていました。読書には、そういう斜めな入り方をしました。

 学校では、勉強は全然得意ではなかったけれど、国語の教科書を読むのが好きでした。椎名誠さんの作品が載っていた記憶があります。それと、国語のノートの表紙の裏に、ちょっとした物語みたいなものが書いてあったんです。憶えているものでいうとポテトチップスの由来。本当かどうか怪しいんですけど、シェフがお客さんにいろいろ注文をつけられて、それが気に入らなくて意地悪な気持ちでじゃがいもを薄く切って揚げて出したら逆に喜ばれて流行ったという話でした。授業中、先生の話が耳に入ってこなくて、そういうものを読んだり、自分でいろいろ考えて時間をつぶしていました。

――考えていたというのは、空想物語みたいなものですか?

 空想というより、自分はヤバイ人間なんじゃないかということを考えていました。身体を使って何か発散することもできず、言語を使って何か発散することもできず、想像だけがどんどん膨らんでずっとモヤモヤしていて。中学生くらいになると、現実の世界に追いついてきて、余裕がなくなってそういうことはなくなったんですけど。小学生の頃はまだ自分が確定してないから、どこまでも可能性があることが逆に気持ち悪くて。

 まわりを見ていて、みんな"小学生の子供"をやっているなという印象だったんです。でも、自分はそういう感覚でもないし、かといって大人みたいに振る舞えるわけでもない。それでモヤモヤしていました。"子供"をやるのって疲れるな、これがどこまで続くんだろうと思っていました。

 友達と遊ぶにしても、今日はこの人と遊んだから次はあの人と遊ばないといけないなと考えたり、公園に行って遊んで家でゲームして、これで今日は終わりだと仕事をするみたいな感じで小学生をやっていました。

――その頃、何か夢中になったものはありましたか。

 ゲームもみんながやっているからやっていたし、アニメの「ドラゴンボール」も、みんなが見ているから見るという感じでしたね。本はわりと積極的に読んでいました。小学校4年生か5年生の時に、怪談が流行ったんです。「学校の怪談」という映画が公開されて、トイレの花子さんのような学校の七不思議が流行って。その時に、KKベストセラーズから出ていた児童向けの怖い話の本をお小遣いで買って読んでいました。たまたまなのかもしれませんが、KKベストセラーズの本って、インクの独特な匂いがしたんです。それが書かれている話になんとなく合った匂いだったので、嗅ぎながら読むのが好きでした。図書室にも怪談の本があったので借りて読んでいたんですけど、「これは匂わないな」と思ったりして。ただ文字を読むだけでなく、他の感覚と合わせて本を楽しんでいました。

――文章を書くことは好きでしたか。

 作文は好きでした。わりと褒めてもらえたので、そこが唯一の闘う場所だと思って命を賭けていました(笑)。確実に大人が喜びそうなことを書いていましたね。一回、マラソン大会で、走っている時にたまたま給食のおばさんが通りかかって「がんばれ」と言ってくれたことがあったんです。内心「そんな他人事みたいに言われても」と思いながら走っていたんですけど。そのマラソン大会について作文を書く時に、ちょうどその頃ビデオをレンタルして観た映画のパッケージの裏に「~という言葉の意味をはじめて知った」というコピーがあったので真似して、「その時僕ははじめて『がんばれ』の意味を知った」と書いたら、さすがに「言いすぎだ」って先生に怒られました(笑)。

 「この時主人公はどう思ったか答えなさい」といった問題はいつも花丸でした。というのも、父親が灰谷健次郎さんの本などを読みながら「この時この人がなんでこう言ったか分かるか」という問題を家でよく出していたんです。何かを教えようという感じではなくて、友達みたいなノリで、答えられなかったら「こんなことも分からないのか」ってバカにしてくる。ちゃんと勉強しなさいという感じだったら興味を持たなかっただろうけど、バカにされるのが悔しいので理解しようとしました。そこから「この人はどう思ったか」という問題が好きになったんです。

――お父さん、そんなふうにバカにするとは......。

 かえってそれがよかったんです。よくいえば分け隔てなく接してくれていた。他にも遠藤周作さんの『わたしが・棄てた・女』から出題したりしていましたね。子供に分かるわけないじゃないですか(笑)。でも、自分が子供であることに対して嫌気がさしている状態だったので、それが嬉しかったんです。逆に友達の家に遊びにいって、そこの親が自分に子供として接してくるのが嫌でした。自分の家はいい意味で、両親が子供を子供扱いし過ぎなかったので、それは今の自分に影響を与えています。

――ちなみに灰谷健次郎さんはどのあたりの本だったのでしょう。

 『兎の眼』とか『太陽の子』ですね。でも、僕自身は読み切らなかった気がします。父親とは、いまだに読書の趣味が違いますね。父親はミステリやエンタメ系が好きなので。

――ご兄弟はいらっしゃるのですか。

 3つ下の弟がいて、小学校の頃はよく一緒に遊んでいました。夏休みに行く場所がないんですよ。近所のおもちゃ屋は通いすぎて「もう来るな」と言われ、「プールに行ってこい」と言われても二人とも泳げない。それで、地元にしては大きめの本屋があって店内が涼しいので、そこに行って学校の怪談をずっと立ち読みしていて、迷惑をかけ続けました。これは本当によくないんですけど、一度、ゲームの攻略本を買って裏技のところだけ見て返品したこともあって......本当に駄目ですよね。今話しながら落ち込んできました。自分が本を出せるようになった時にちゃんと恩返ししようと思っていたんですけど、刊行される直前にその店がつぶれちゃったんです。いまだに申し訳ないという気持ちがあります。

「ぴあ」で世界を広げる

――ほかに小学生時代に読んで記憶に残っているものは。

 小学校高学年の時に図書券ではじめて買って読んだのが下村湖人さんの『次郎物語』でした。何も知らずに手にとったんですけど、夢中になりましたね。あれがはじめて「ちゃんと小説を読んだ」と思えた本です。読み終わった時に寂しくなったのがはじめてだったんです。登場人物たちに置いていかれたような、自分だけ放り出されたような寂しさがありました。そういう経験をして癖になったというか、本っていいなと思いました。

 でも、小学校6年生くらいにその頃流行っていた『ソフィーの世界』を買って、これはまったく読めなかったです(笑)。

――ファンタジー小説だけど内容は哲学入門で、めちゃくちゃ分厚かったですよね。

 あとは、書店の近くの中華料理屋に週一回家族で行っていて、帰りに本を買ってもらっていた時期がありました。その頃は、とにかく読み切ることが大事だったので、いつも薄い本を探していました。群ようこさんの『膝小僧の神様』というエッセイを読んだりしていましたね。どの本も、中華料理の味つけとセットで覚えています(笑)。

――小学生時代はモヤモヤしていたとのことでしたが、将来どうなりたいと思っていたのでしょうか。

 父親が板前なので後を継ぐと言ったりもしていたけれど、そこまで深く考えていなかったですね。はやく子供を終わらせたいと思っているわりには、大人になって何になりたいかはまったく考えていませんでした。

――中学校に入ってからの読書生活は。

 読書の記憶が抜けてしまっているので、あまり読んでいなかったのかもしれません。そのかわり、雑誌の「東京ウォーカー」にはまりました。

 小学生の頃から近所のビデオ屋さんに通うようになって、映画が好きで「ロードショー」や「スクリーン」といったハリウッド俳優が出ているような雑誌を買って読んでいたんです。小学生が珍しいのか店員さんが可愛がってくれて、映画館に連れていってくれたりもして。中1の時にデヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」を観にいって、エロくてどうしたらいいか分からなかったですね(笑)。そういう大人の世界を見せてくれた店員さんはバンドマンで、映画だけでなく洋楽もいろいろ教えてくれたんです。その人がいつも読んでいたのが「東京ウォーカー」でした。それで僕も読んでみたら、行ったことのない街の情報が分かるのがすごく面白かった。そこから、もっと情報が欲しくなって「ぴあ」にいきました。文字だけで読んで、この町のこの映画館はどんな感じかなと想像したり、エキストラ募集の情報を見て、この日のこの時間にこういう映画を撮るんだなと思ったり。実際の行動範囲は狭かったけれど、「ぴあ」を見て妄想していました。小学生の頃からずっとしてきた妄想をいい方向に逃せたんです。

 ライブハウスの情報はバンド名が詰めこまれているから、そこからもいろいろ想像できるし、イベントのタイトルからもどんな音楽のジャンルかを想像できる。それで実際に行ってみたくなって、中学生の時からライブハウスに行くようになったんです。最初は弟と2人で、週末のお昼、高田馬場のライブハウスであったアマチュアバンドのオーディションライブに行きました。入口でバンドメンバーに「タダでいいから入りなよ」って声をかけられて入ったら、お客が僕と弟の2人だけで気まずかった。「楽屋においで」と言われていったら、バンドメンバーの奥さんと子供がいたりして。今思えば家族がいるのにオーディションライブに出ているのは大変ですよね。でもその時はそんなことは思わず、デモテープをもらって、全然いい曲じゃないんだけど弟と一緒に憶えるまでずっと聴いていました。そういうこともあって、「ぴあ」に思い入れがあります。

――「ぴあ」って映画でも音楽でも展覧会でも、いろんな情報が一挙に載っているので、興味がないものも目に留まって、だからこそ世界が広がりましたよね。

 タダで手に入る情報より、お金を払って得た情報のほうが縁起がいいような気がしていたんですよ。面白いものに当たる確率が高くなる気がしていて。だからちゃんと「ぴあ」を買って、そこからの情報で見に行ったもののほうが思い入れがあります。バイトでも、無料の冊子よりも、お金を出して買ったバイト情報誌を見て応募したほうが、面接に受かるような気がしていたんです(笑)。それと同じ感覚が「ぴあ」にもありました。

――ところで、映画も好きだったんですね。

 地元から上野の映画館が近くて、友達と観に行くようになったんです。先ほど話した近所のビデオ屋でレンタル落ちの中古CDを買っていたので、自分にとっては映画と音楽は繋がっていました。とにかく情報に飢えていたので、映画館に行くとパンフレットも買って、隅から隅まで読んでいました。当時、「シネマ通信」という番組があったんですよ。(石川三千花さんの)イラストで新作映画を紹介していて、あれを見るのが楽しみでした。

――どんな映画が好きでしたか。

 最初はアクション映画とか、ハリウッド大作を映画館で観ていました。中学生くらいから邦画を観始めて、「ぴあ」で情報を得ていたので、ある時ぴあフィルムフェスティバルで準グランプリを獲った熊切和嘉監督の「鬼畜大宴会」という映画を観たんです。監督が大学の卒業制作として撮った内ゲバの話です。あれ、すごい内容なんです。背伸びしてレンタルビデオで借りて観て、友達に薦めたら怒られました。「肉食えなくなった」って。

 そういうことも含めつつ、映画も音楽もスタンダードなところから入って、「ぴあ」を通してちょっとずつ深いところにいけました。

――自分で演奏することはいつから始めたのですか。

 だんだんバンドに興味が出てきたけれど、その時はまだお金がなくて楽器も買えなくて。でも、夏休みに従兄弟に会うと「BANDやろうぜ」という雑誌を読んだりしていて、何か楽器を買えば仲間に入れてもらえるかなと思ったんです。それで雑誌に載っているなかでいちばん安い楽器を選んで、「これ買うから仲間に入れて」と言ったら、「それはチューナーだから無理」って言われました(笑)。

 中学2年生の時にギターを始めました。本でいうと、「歌BON」や「ソングコング」という、新曲などのギター弾き語りのコードが載っている雑誌を買っていました。「歌謡曲」とか、何種類か同じ系統の雑誌が出ていましたね。「Go!Go!GUITAR」も、最後のほうに初心者向けのアコースティックギターのコードが載っていました。父親はかぐや姫というフォークグループが好きで、自分はギターを持っていないのになぜかかぐや姫の弾き語りのコードが載った本を持っていたので、それをもらいました。楽器は買えないのに本だけは買っているなんて、親子でやっていることは一緒でしたね(笑)。

――そういう方も多いと思いますが、ギターは独学だったわけですよね。

 ギターのTAB譜も、最初は反対に読んでいたんです。弦のどこを押さえるかが書いてある譜面で、TAB譜通りに押さえているはずなのに音がおかしいなと思って。でもそれは自分の気合いが足りてないからおかしく聞こえるんだって(笑)。そこから練習して、基本のコードをおぼえていきました。ゆずの楽曲のコードが載った本を見ていました。

 子供の頃から、プラモデルを作ってもみんなと同じようにならないし、できないことばかりだったんです。みんなと同じようにできないのはなんでだろうというのが常に目の前にあって、音楽もそうだったけれど、でも何かが違った。できなくても諦めたくないとはじめて思えたのが音楽でした。そこからずっとそのままです。ひとつできたらまたできないことが出てきて、結局いまだにそれを繰り返している。まだできないことがいっぱいある。それがあるから続けていられるんだと思います。

――人前で歌うことは。

 中2の時から路上で弾き語りを始めました。その頃、ゆずの影響ですごく流行っていたんです。友達と学校帰りに「今日やろうか」と言って、浅草のアーケードでやったりしていました。子供を連れたお母さんが「この子の面倒みてて」って500円くれて一人でパチンコに行って、その子に「何が聴きたい?」って訊いたら、すごく簡単なものを言うと思ったのに「エリック・クラプトン」って返ってきて。「それは歌えねえなー」って(笑)。そんなこともありました。

 自分と関わりのない街でやろうと思って銀座のホコ天でやった時は、大人も多いし外国人観光客も通るから、珍しかったのか写真を撮ってくれたりして。それで喜んでいました。

高校時代にバンドを始める

――読書についてはその後変化はありましたか。授業で太宰治など古典的名作を読む機会があったりしたのでしょうか。

 読んだかもしれませんが、不真面目だったせいか、憶えていないんですよ。太宰治とか夏目漱石とか、ちゃんと読んだことがないんです。音楽でも、ビートルズをちゃんと聴いたことがない。だから「貯金がある」と思っています。まだ取り入れてないぞ、と。

 でも、太宰治については、ひとつ憶えていることがあります。当時通っていたのは、割と荒れている学校で。国語の先生が胃潰瘍になってしばらく学校を休んだりしていたんですけど、映画好きな先生で、よく二人で映画の話をしていたんです。その先生が最後の授業の時に、「今から全力でやります」と言って太宰治の「走れメロス」の朗読をはじめたんですよ。本当に全力で、恥ずかしいくらいミュージカルっぽく感情を乗せて、1時間かけて最初から最後まで朗読したんです。尋常じゃないテンションで、大人がそんなことをするのを見るのははじめてだったし、みんなバカにして笑っていて。自分も恥ずかしくなって便乗して笑っていたし、今考えてもあれは普通じゃなかったと思う。でもやっぱり、便乗して笑ったのは申し訳なかった。先生も、生徒たちが真面目に聴くわけがないと分かった上でやったんだろうけど、今、「自分だったらあれをやれるだろうか」って考えてしまう。

 自分は今、自分に興味を持った人にしか接していないんだと、つくづく思います。この10年くらい、自分にまったく興味のない人の前で喋っていない。アマチュアの時は自分に興味のない人の前で歌っていたけれど、今、そういう人の前で本気でやれるかと考えると、自分はもう今の状態に慣れてしまっているんですよね。今も、先生のことを話しながら、やっぱりあれはすごいことだったんだなと思っています。

――バンドを組んだのは高校生の時ですか。

 高校2年生の時にはじめました。学校に軽音楽部もあったんですけど、そこには入らず、地元の友達と組みました。ギター、ベース、ドラムの3人のバンドです。

――最初は誰かのコピーを演奏したり?

 バンドスコアを読むのが面倒くさくて、オリジナルでやっていました。今まで、コピーをしたことがないんですよ。トリビュートアルバムの企画としてカバーをしたことはありますが。元から弾き語りをやっていたから、そこにベースとドラムを加えればいいだけだし、自分で作ったほうがはやいと思ったんです。

――曲はすぐ作れたんですか。歌詞の参考にするために辞書を引いたり詩集みたいなものを読んだりとかは。

 作ったメロディがちゃんと曲になっているのか、自分では分からなかったんですよ。何かに似ているんじゃないかと不安で、よく母に「このメロディとこのメロディって似てると思う?」と訊いて「えー、分からないよ」と言いつつ聴いてくれて、「うーん、似てるかも」と言われると「えっ、どこが似てる?」と追及して迷惑をかけていました(笑)。今はもう、そういうことは気にならなくなりました。

 歌詞は、当時はそれなりに思い入れがあったけれど、今思うと言葉を並べただけで意味がなくて恥ずかしいですね。辞書を引いたり何かを読んだりもしたかもしれないけれど、それが実際に歌詞に結びつくことはなかったと思います。

 路上ライブを始めた動機も不純だったんです。ちゃんと曲を作って聴かせたいというより、何かを表現したい、自分を見てほしいという気持ちが先走っていた。バンドを始めてからも、そこから抜け出せずにいました。当時、ヤマハ主催のティーンズミュージックフェスティバルという大会があって、勝ち上がると大きな会場でライブをやれたんです。そういうのに出て、ボコボコに負けて実力を知って落ち込んだりしていました。

 その間は読書から離れていましたね。読んでいたのに、音楽の記憶にかき消されているのかもしれません。映画は邦画ばかり観ていて、岩井俊二監督の「リリィ・シュシュのすべて」がすごく好きでした。

見本で読書生活

――高校を卒業したらどうしようと思っていたのでしょうか。

 高校3年の時にライブハウスで本格的に活動をはじめて、大人のバンドに混じって出ていたんです。今思うとライブハウスに騙されていました。「お前たちは上手いから、もう大人のほうに出ろ」と言われて「すごい評価されてる」と思ったんですけど、大人に混じると一気にノルマが上がるんです。ライブハウスの人はそのために言ったんでしょうね(笑)。そのあたりからライブのリハーサルのために高校を早退したりして、気づいたらもうみんな就職を決めていました。夏休みに慌てて学校の担当の先生に会いにいったら「遅いよ。もうこれくらいしかないよ」と言われて、見せてくれたファイルの中に加藤製本があったんです。本だったら好きだし「ここがいいです」と言って面接を受けて合格して、卒業までまたバンド活動をしていました。でもメンバーには就職したとは言わず、親にはバンド続けていると言わず、加藤製本にもバンドをしてますと言わず、もう最悪でした。就職してからもその状態で夕方まで働いて、スタジオに行って練習をして。あの時は辛かった。

――どうして言わなかったのですか。

 バンドの他のメンバーは就職せずに活動していたので、親からのプレッシャーで就職したとは言えなくて。親には「バンド辞めろ」と言われて「辞める」と言ってしまって。もう本当にどうしたらいいか分からなかったですね。

 仕事はできなかったけれど、すごく好きでした。同期でも好きな人がいたし、何より本に関われることが嬉しかった。当時、駄目になった見本をもらえたんですよ。製本会社は、本を大量に作る前に、出版社に「こんな形の本になります」と見せるために何冊か見本を作るんです。手作業で膠を塗ったりして、職人のような作業をして。その時にインクがつくなどして駄目になった見本をもらっていて。そこからいろいろ読むようになりました。

 そこで町田康さんの本をもらったんです。最初は『くっすん大黒』で、こんなに面白いものがあるんだ、って。自分もみんなを裏切ってどうしようもない状況だったから、駄目な主人公が自分と一緒に思えて、こういう人がいるならまだ自分も生きていけると、すごく救われました。それから『へらへらぼっちゃん』とか『屈辱ポンチ』を読みましたね。

 吉田修一さんを知ったのも加藤製本でした。デビュー作の『最後の息子』が最初で、そこから『熱帯魚』や『パーク・ライフ』など、初期の頃の作品を夢中になって読みました。

 すごく印象に残っているのは小川勝己さんの『ぼくらはみんな閉じている』。短篇集なんですけど、全部気持ち悪い話だったので憶えている(笑)。写真集ももらったりしましたね。そういえば、木村拓哉さんの写真集が出た時と「ハリー・ポッター」が出た時は、すごい残業になりました。

 当時、ライブのたびに当日欠勤をしていたんです。朝、事務のおばさんに電話をするんですけど、2人いて、1人が優しくて1人はめちゃくちゃ怖い。電話をするたびに「優しいほうであってくれ」と思うんですけどたいてい怖いほうで、「尾崎です」って言った瞬間に「分かってるけど何?」「体調が......」「(嫌そうに)はい!」がちゃん、って。そういうことが続いて、1年足らずで辞めてしまったんです。そこからバイトをしながらバンドをやっていました。本当に加藤製本には迷惑をかけました。

 でも今、加藤製本で自分の本を作ってもらっているんです。当時の上司の飯塚さんが今は営業の部署にいて、こないだも本ができる時に会いに行きました。

――自分で加藤製本さんをリクエストしたということですか。

 そうです。最初に『祐介』を出した時に、版元の文藝春秋と取引きがあるようだったので、「なるべく加藤製本にしてほしいです」とお願いしました。逆に今は、加藤製本と取引のない出版社と仕事をする時、「加藤製本さんじゃないと無理ですか?」と言われるようになりました(笑)。

 1度、バンドをしながらバイトをやるのがきつかった時期、あのまま加藤製本で働いていたら幸せだったなと思い、恋しくなって神楽坂の印刷会社を受けに行ったんですよ。「週5日来てくれないと駄目だ」と言われて無理だったんですけど、その帰りにせっかくだからと加藤製本の近くまでいったら向こうから同期が歩いてきて、今の自分を見られるのが恥ずかしくなって陰に隠れました。あれは情けなかったですね。

――尾崎さんがはじめて本を出した時、加藤製本さんのみなさん喜んでくださったのではないですか。

 本が10万部売れると出版社が特装本を作ってくれるんですけど、『祐介』を出した時、10万部も売れていないのに飯塚さんが特装本を作ってプレゼントしてくれたんですよ。箱に入って、箔が押してあって。いまだに大事にとってあります。本当にありがたいです。

>尾崎世界観さんが読んできた本たち(後編)は4月20日に公開します

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