2008年6月8日、凶器は「2トントラックとダガー」。7人が死亡した「秋葉原通り魔事件」。
この事件を起こし、死刑判決を受けた男である加藤智大の手記『解』が先日出版された。内容はもちろん、「事件を振り返っての色々」。

本書には事件にいたるまでの3年間ほどの経緯が具体的に書かれており、会社を辞めたとか、出会い系で恋人を作ろうとしたとか、ゲームセンターのオーナーになってもよかったかも、などなど、当時どう思い、どう行動し、どうダメだったのかなどが書かれる。そして彼本人の性格や考え方がどういう風に成り立ったのかを、幼少期の思い出などとともに自分で分析している。

加えて、かなりのページを費やして書いているのが、インターネット掲示板についてと、マスコミへの批判。掲示板については、掲示板文化の説明や、自分が掲示板で過ごしてきた時間について、実際の自分の書き込みを多数引用しながら振り返っている。


事件について詳しくない人は、まず驚くとともに納得するのが、母親の存在だ。母親には「テレビやマンガ等を制限」され、「母親のコピー」になるように育てられたと書いている。食べるのが遅いと、食器から食事を広告チラシの上に移して先に食器を洗い、しまいにはチラシから無理に口に入れる、とか、冬に雪で靴を濡らして帰ると裸足で雪の上に立たされた、とか色々。

こういう母親に育てられていくうちに、文句を言わずにコミュニケーションをとらず、受け身な人間になってしまったという。確かにそれは解る。そして無言で罰を受けるうち、相手が何を自分に罰しようとしているのか「意味が解ってしまう人間」になったという。


何か嫌なことがあると罰であると受け止め、他人の間違いに対しても自分から無言の罰を与える。常に「10対0」、完全な正義から完全な悪に罰が与えられるという考え方だ。そういう思い込みを繰り返して友人とすれ違ったり会社でトラブルを起こしたりして、最終的にあの事件になったのだと書いている。そこを細かく反省しつつも、「人の心が読み取れてしまう」って感じで書いてる部分がある。勝手に読み取ってるだけだから「読み取ってしまう」だろう。そういうのも書いているうちに考えがゆらいだりしてるのかもしれないけど、ちょっと心配になる。


秋葉原通り魔事件は、彼が仕事のトラブルなどで社会から孤立する中、唯一の自分の場所である掲示板の「自分が立てたトピック」が荒らされたことが原因だ。原因というか、事件は掲示板での問題を解決するために使った手段だった。事件の予告を掲示板に書き、トピック主である自分に「成りすまし」た人間に対して、「心の苦痛を与えて考え方を改めさせる」ために秋葉原通り魔事件を思いつき、実行したのだった。事件の内容は何でもよくて、報道で事件を知った成りすましに「掲示板の予告の通りだ、自分のせいで大変なことになってしまった」と悔い改めさせるのが目的。

なんて回りくどいやり方なんだ…というのが普通の人の印象だろう。本人もそういうことは逐一反省している。


コミュニケーションの足りない彼だが、社会からの孤立を常に恐れてきた。何度も自殺を計画したうちのある時、「車の運転席で寝ていたらそのまま死ぬだろう」と思って適当な駐車場で寝ていたら駐車場管理人が警察をつれてやって来たという。警察からは「生きていればいいこともある」と自殺に関して言われ、「(俺は何もしてやらないけど)生きていればいいこともある(だろうから、ひとりで勝手に頑張れ)」と言われたように感じ、突き放された気分になったという。しかしそのあと駐車場の管理人から「金はしばらく待つから、駐車料金を払って欲しい」と言われ、生きる目的・社会との接点を得た思いをしたという。実際彼はこの直後頑張って仕事を見つけ、期日までに金を返している。

受け身で、引き下がったり思いとどまったりする自主性も無く、そのままどんどんメチャクチャになってしまう。
だけど理解できる部分が多く、自分も少し彼と似た部分があるかも、とすら思うエピソードもある。非正規雇用で適当に稼ぎ、コミュニケーションが苦手でインターネットを毎日やる。どこにでも居そうと言えば居そうだ。

それだけにこの本を読んでいると、なぜあんな凶悪事件がもっと多発しないで済んでいるのか、そっちの方が不思議にも思える。彼も実際にそう思う所があるのか、この手記が「似たような事件を未然に防ぐことになるものと信じています」とある。

自分の無い彼だが、警察の取り調べやマスコミ批判の部分では強く気持ちがこもっていたように思えた。
殺意や動機なんて無いのに、それを究明しようとする警察の姿勢、その姿勢によって作られた取り調べ書をそのまま報道するマスコミの間違いを、ある意味ここでは犠牲者として、詳しく指摘している。

センセーショナルに報道され、「会社でツナギがなくてキレた」などが大きく取り上げられたりした秋葉原通り魔事件。わけのわからなさが高かった事件だが、本人の視点で追うことによって理解できることも多かったし、その理解でいいのかどうかというのも不安になる。

たいした意志もなく思い込みと行き当たりばったりで起こした事件を深く反省しても、結局彼本人の中からはあまり何も見つからない。なのに一生反省していかなくてはならなくなった彼。言い訳や言いがかりに見えてしまう言葉の数々で、家庭・学校・社会のせいにせざるをえない側面が強い。それを読む辛さはあるが、対人関係についての悩みや考えにとっての珍しいヒントが落ちているようには思う。(香山哲)