庭を眺めていた部屋で眠る和子さん(写真提供:末井さん)
編集者で作家、そしてサックスプレイヤー、複数の顔を持つ末井昭さんが、72歳の今、コロナ禍中で「死」について考える連載「100歳まで生きてどうするんですか?」。母、義母、父の死にざまを追った「母親は30歳、父親は71歳でろくでもない死に方をした」が話題になりました。第13回は、「和子さんの死」です。

第12回●「3億3000万の借金からの再出発。50歳で人生リセットできた理由」

3種類の死体

解剖学者、医学博士、東大名誉教授などの肩書きを持つ養老孟司さんは、死体というものをどう捉えるべきか考えた末、死体には「ない死体」「死体でない死体」「死体である死体」の3種類があるという結論に達したと、『死の壁』(新潮新書)のなかで語っています。

「ない死体」とは「一人称の死体」で、「私の死体」ということです。私はすでに死体になっている訳ですから、私の死体を、私が見ることも触ることも出来ないので「ない死体」となります。

霊とか魂というものが体から抜け出して、自分の死体を見ているということが考えられるかもしれませんが、養老さんは科学者ですから、霊とか魂というものの存在を多分認めてないと思います。そういうものがあるとすれば、人間の頭のなかでつくり出したものと考えるでしょう。

実はぼくもそう思っているのですが、霊とか魂が不変のものとしてあるという考えも1パーセントぐらいはあります。わずか1パーセントぐらいの考えが、時によっては50パーセントぐらいにまで膨らむこともあり、さも霊とか魂が存在しているようなことを言ったりすることもあります。いい加減だと思われるかもしれませんが、科学が全てだとは思っていないのです。

話が逸れましたが、養老さんの死体論の続きです。

「死体でない死体」とは「二人称の死体」で、「あなたの死体」ということです。親しい人の死体は、いわゆる抽象的な「死体」とは別のもので、死体に見えないということです。悲しみなどの感情を伴って見つめる「死」は、この「二人称の死」なので、死体がモノとしての死体ではなくなるのです。

「死体である死体」とは、自分とは関係のない他人の「死体」、つまり「三人称の死体」です。これこそが、自分にとって死体と認識できる死体となります。葬儀の時、そこに安置されている死体は、親族や故人と親しかった人達にとっては「死体でない死体」ですが、葬儀社の人や、義理で葬儀に参加している人にとっては、「死体である死体」です(この辺り、グラデーションになりますが)。死体になってしまった人との関係性によって、死体の見方が変わってくるということです。

『死の壁』はだいぶ前に読んだ本で、それを何故今になって思い出したかというと、1ヵ月ほど前に妻の美子ちゃんのお母さん(和子さん)が亡くなり、その遺体が我が家に寝かされているのを見て、親しい人の死体は死体であっても死体とは思えないということをしみじみ思ったからです。