イギリス在住のブレイディみかこさんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「転がる珠玉のように」。今回は「取り散らかった日常」。文章には読者がスッキリする「オチ」が求められる。煩雑でいっこうに落ち着かない日常に、「オチ」はつかないはずだったが――。(絵=平松麻)

物を考えるということ

俳優の平田満さんとオンラインで「哲学対話」をさせていただいた。これは平田さんが発案し、穂の国とよはし芸術劇場PLATで定期的に行われているイベントで、毎回違うゲストが喋る第一部と、会場に来てくださった方々も参加して対話する第二部で構成されている。

平田さんは、「哲学対話」は結論が出る必要はないし、話がまとまらなくてもいいと最初に言われた。つまり、取り散らかっていてもいいというのである。イベントの初回ゲストだった東京大学の梶谷真司教授の受け売りだと仰っていたが、その言葉がとても印象的だった。

思えば、物を考えるということは、何か明確な答えを出したり、「ここがゴール」という到達点に辿り着くための作業ではない。逆に、深く広く考えれば考えるほど、「こういう事象もあったのか」とこれまで知らなかったことがわかってきて、思考はどんどん取り散らかっていく。

それらを無理やりまとめるには、思考を止めるしかない。ある地点を結論とすることは、それに当てはまらない事象もあるかもしれないという可能性をバサッと切ることだからだ。なぜそんなことをするのだろう。人は何かとスッキリしたがる生き物だからだ。スッキリ整頓されたほうが気持ちいいし、取り散らかっている状態では気が落ち着かない。

加えて、気が落ち着かない状態は弊害を生み出す。例えば、日々が雑然としていると、エッセイなどの実生活に基づいた文章の執筆作業は困難になる。つながりのない断片ばかりを拾って綴っていっても、文章はどんどん拡散するばかりだ。それでは読み手の「オチ」要望に応えることができない。ほっこりする「オチ」、予想もしなかった「オチ」、そうだったのかと唸る「オチ」、などをつけて読者をスッキリさせることができなくなるのだ。