畑山隆則 盟友・竹原慎二との出会いで一気に全国区へ 幻に終わった東京ドーム防衛戦…後編

スポーツ報知
WBA世界ライト級タイトルマッチ12回戦。挑戦者・坂本博之を攻める王者・畑山隆則(右)=横浜アリーナで、2000年10月11日撮影=

 畑山はライト級での2階級制覇に向け必死に調整を続けた。再起戦での世界挑戦という前例のないタイトル戦へ無我夢中に汗を流した。それと同時に、知名度を全国区へと押し上げる千載一遇のチャンスが訪れる。

 「ガチンコ・ファイトクラブ」。1999年から2003年までTBS系で放送されたバラエティ番組「ガチンコ」の中で、特に人気を集めたのが「ガチンコ・ファイトクラブ」だ。元WBA世界ミドル級チャンピオンの竹原慎二がコーチとなり、不良少年たちを厳しい指導でプロボクサーに育て上げるという企画が大ヒット。世界挑戦を前にした畑山に特別コーチの声がかかり、出演するチャンスが巡ってきた。

 「自分の名前が一番売れたのは『ガチンコ』でしょう。当時の地上波のゴールデンタイムの影響力はすごかった。ライト級で世界挑戦する前でしたし、とにかく運がよかった。そのきっかけを作ってくれたのが竹ちゃん(竹原の愛称)なんです。竹ちゃんが自分を番組に推薦してくれなかったら、こんなに有名にはなっていなかった」

 日本で初めてミドル級の世界チャンピオンとなった竹原とは、専門誌の対談で知り合った。現役を引退した竹原がジムに足を運びインタビューするというコーナーで、畑山のジムを訪れたのがきっかけとなった。そこからプライベートでの付き合いも始まり、2002年7月には東京・新宿区に共同オーナーであり、ゼネラルマネージャーという立場で「竹原慎二&畑山隆則 ボクサ・フィットネス・ジム」をオープン。2012年12月からは東京・大田区大森に移転して現在に至っている。

 2000年6月11日、有明コロシアム。念願の2階級制覇は漫画のようなKOシーンで締めくくった。上半身を左右に振りながら前進して序盤からセラノと打ち合った。2度のダウンを奪って迎えた8回。左右のフックにセラノのマウスピースが客席に吹っ飛び、最後は右ストレート。計5度のダウンを奪い、ガッツ石松以来、24年ぶりのライト級王者の誕生となった。この日の畑山劇場はまだ続いた。リング上の勝利者インタビュー。

 「初防衛戦は坂本(博之)選手とやります。(相手は)頑丈で根性がある。プライドをかけて戦います」

 セラノ戦の前だった。畑山はオーナーに確認した。「王座獲得に成功すれば、次は坂本選手と試合をするとリング上で言っていいんですね」。思い返せば「坂本との試合が見たい」という宮川のひと言から始まった畑山のボクサー第2章。その試合を一番望んでいたのは宮川であり、そう聞いてきた畑山の言葉がうれしかった。今ではタイトル戦後に次期挑戦者がリングに登場するシーンも増えたが、当時はリング上で次の対戦相手の名を出す選手など日本ボクシング界では皆無。斬新な言動に世間の注目度は加速した。

 「ガチンコ」で得た知名度にセラノ戦でのKO勝利も重なり、マスコミからは連日引っ張りだことなった。試合を中継するTBSに限らず全局から出演依頼が殺到した。そして歴史的な名勝負となった坂本との初防衛戦(10回TKO勝ち)。試合前にはこんな名言を残している。

 「僕は顎が弱い。

 坂本選手は顎が強い。

 僕はパンチが弱い。

 坂本選手はパンチが強い。

 だから僕が勝つんです」

 2人は過去にスパーリングをした経験がある。その時、畑山は感じた。顎が弱いならガードを下げない、パンチが弱いなら単発ではなくコンビネーションを打つ。自らの弱さを知り、それを補うための努力をした人間は強くなる。逆に坂本は試合前「あの程度のパンチでは自分は倒れない」と確信していたと振り返っている。勝負はゴング前についていたのかもしれない。

 この時期、ガチンコの影響もあり全国のジムに練習生が急増する「ボクシングバブル」が到来していた。その一端を畑山も担っていた。特に防衛後は顕著だった。

 「ジムの会長さんたちが『畑山くんの試合の後は必ず入門希望者がジムに来る。多いときは十数人来た時もある。ありがとう』と、よくお礼を言われました。でも、今の井上(尚弥)チャンピオンと比べたら足元にも及びませんが」と、謙遜するが影響力は絶大だった。

 2度目の防衛戦(2001年2月17日)は日本王座22連続防衛の日本記録を持つリック吉村(石川)が相手となったが、大苦戦だった。足を使うリックに「あのタイプは苦手なんです」と三者三様のドロー。9回にリックがホールディングで減点されるが、それが無ければ1―2で王座を失うという薄氷のV2戦となった。3度目の防衛戦(2001年7月1日)は1位挑戦者との指名試合。相手はフランスのジュリアン・ロルシー。この時、畑山の人気は最高潮に達していた。防衛戦の会場はボクシングでは初となる2万2000人を収容する「さいたまスーパーアリーナ」が用意された。ロルシー戦では実際、2万人のファンが集まっている。ジムオーナーの宮川は、ロルシー戦後のビッグプランも公表し、実現へ動き出していた。「指名試合をクリアすれば、次は(東京)ドームで防衛戦をしたい。ハタケ(畑山の愛称)を日本人で初めてドームのリングでメインイベンターを務めさせる」と明言している。88年3月、90年2月と統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)が5万人の観衆を前に防衛戦を行ったリング。今年の5月6日には日本人で初めてメインイベンターとしてスーパーバンタム級の世界4団体統一王者・井上尚弥(大橋)が防衛戦を行うが、20年以上前の2001年秋には、畑山の防衛戦が計画されていたことも事実として残っている。そして唯一、この復帰劇の筋書き通りに行かなかったことが「ドーム防衛戦」だろう。

 初防衛戦からの3試合で手にしたファイトマネーは7500万、7500万、1億2000万円。国内のプロボクシングは33%がジム側のマネジメント料となるが「手取りで5000万、5000万、8000万を貰いました」と畑山は隠さず言う。当時、ファイトマネーを公にするジムは数少なかったが、オーナーの方針もあり畑山は包み隠さず公表していた。

 3度目の防衛戦で判定負けすると、その半年後の2002年1月に引退を表明した。

 「さすがにやり切ったという気持ちしかなかった。もういいでしょ」

 前回とは違い、現役への未練はなかったという。現役時代から経営に興味を持ち「戦うビジネスマン」としても手腕を発揮した。「お金をどうこう運用することを考えるのが好きなんです。初めて起業したのがマッサージ店。それから飲食を3、4店舗。これは全部ダメで、今やっている車関係とジムが成功しました」という。いい事ばかりではなく「30代は何をやってもダメでした。だまされてお金をもっていかれたし、不動産も売りましたから」と言うが、ようやくここ10年で右肩上がりになったそうだ。

 ライト級世界王者となり一躍時の人となった。その期間はわずか1年。連戦連勝、王座を長期間保持したチャンピオンではない。たが、その存在感は引退から20年以上たってもいまだ色あせない。史上4人目の2階級制覇という記録以上に、記憶に残るボクサーの代表格なのだろう。(近藤 英一)=敬称略、おわり

 ◆畑山 隆則(はたけやま・たかのり)1975年7月28日、青森・青森市生まれ。48歳。中学時代は野球部に所属しエースとして活躍。スポーツ推薦で青森山田高に進学するが、野球部の練習中に先輩部員と対立して1か月で退部。辰吉丈一郎に憧れプロボクサーを目指すため高校を中退して単身上京。93年6月にプロデビュー。全日本スーパーフェザー級新人王(大会MVP獲得)、96年3月には東洋太平洋同級王座獲得。98年9月にWBA世界同級王者・崔龍洙(韓国)に2度目の挑戦で判定勝ちし王座獲得に成功。2000年6月にはWBA世界ライト級王座を獲得して2階級制覇を達成。3度目の防衛に失敗後の2002年1月に引退。戦績は24勝(19KO)2敗3分け。身長173センチの右ボクサーファイター。

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