笠谷幸生さん 欧州ジャンプ週間史上初の4戦全勝目前で帰国 権威あるタイトルより優先した公平な扱い

スポーツ報知
札幌冬季五輪70メートル級ジャンプで優勝の笠谷がライバルのモルクに肩車され笑顔を見せた(左は銅メダルの青地、右は銀メダルの金野)

 1972年札幌五輪スキー・ジャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で、日本人初の冬季五輪金メダリストとなった笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが23日午前7時35分、虚血性心疾患で札幌市の病院で死去したことが26日、分かった。80歳だった。札幌五輪では日本選手が表彰台を独占。「日の丸飛行隊」と称され、日本中を沸かせた。葬儀は近親者で行われ、後日、お別れの会を開く。

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 札幌五輪を約1か月後に控えた72年の欧州ジャンプ週間。笠谷さんは開幕から3連勝し、史上初(当時)の4戦全勝に王手をかけていた。しかし、最終戦のビショフスホーフェン(オーストリア)を欠場。日本で五輪代表選考会を控えており、大会前から決めていたという。

 年末年始にドイツ、オーストリアでの計4戦で争う同大会はW杯より歴史があり、欧州では五輪、世界選手権と並ぶ権威あるタイトル。当然、現地の怒りを買った。笠谷さんはコーチから「残ってもいい」と言われたが、五輪選考で特別扱いされることを嫌い帰国した。

 かつて欧州ジャンプ週間を何度か取材したが、ビショフスホーフェンでは地元の観戦者から雪玉をぶつけられたことがある。相手は「ヤパーナ(日本人)、カサーヤ!」と叫んで逃げていった。“元祖レジェンド”の名は、欧州にも深く刻まれていると実感した。

 葛西紀明が地崎工業(98年廃部)に所属していた当時のコーチから、笠谷さんのエピソードをうかがったことがある。大会が終わった帰り際、どこからともなく笠谷さんが現れ、スッとメモ書きを手渡されたという。大会パンフレットの片隅に書き留められていたのは、的確な課題の指摘と図解だった。自身の技術を選手に直接伝えることは少なかったが、てらいなく陰から後進を支えた。国内外で功績を残してきた希代の名ジャンパーだった。(石井 睦)

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