平成時代には多くの日本人アスリートがさらなる活躍の場を求めて海を渡った。中には阪神・淡路大震災の経験を胸に、世界の高みを極めたパイオニアもいる。震災が発生した1995年、神戸に本拠を置いたプロ野球オリックスのリーグ優勝を支えたイチロー(現大リーグマリナーズ会長付特別補佐)と田口壮(現オリックスコーチ)だ。これまでの神戸新聞の報道を基に、2人の道のりや思いをたどった。
「今ある僕の人格だとか性格だとか考え方というのは、ほとんど神戸でつくられたものなんですよね」
震災10年を前にした2004年オフ、マリナーズに所属していたイチローは神戸市内で神戸新聞の単独インタビューに応じた。率直な語りに、神戸への深い思いがにじんだ。
1995年1月17日は、オリックスの合宿所「青濤館」(神戸市西区、現在は移転)で迎えた。前年にプロ野球最多安打を記録し、スターダムにのし上がったころ。就寝中、ものすごい音と激しい揺れに襲われた。「ただ事ではない。命の危険を感じましたね」。多くのファンが住む神戸・阪神間の市街地は、壊滅的な被害を受けた。
野球をやっている場合か-。葛藤の末、行き着いた結論は「僕らは野球をしなくてはいけない」。開幕後は、予想をはるかに上回るファンが球場に詰め掛けた。「がんばろうKOBE」を合言葉にチームは快進撃を続け、初のリーグ優勝を果たした。
「何かに導かれるような感じでしたね。自分以外の何かの力が働いているような」
「震災で傷ついている人たちが球場にやって来て、スポーツを見ることで、つらいことを忘れようとしている。そんな雰囲気があった。街に出れば、震災に遭った人たちが、僕に何かを託していると感じることができました」
優勝時の監督だった仰木彬も、震災10年のインタビューでこう述懐した。
「プロ野球選手が気持ちを一つにするなんてなかなか難しいこと。復興への思いが団結心を生んだ。すごいと思った。神戸で試合をしていなければ、絶対にリーグ優勝はなかった」
マリナーズ入りしたイチローはさらに進化する。01年に新人王やMVPなどを獲得、04年には262安打で大リーグ記録を打ち立てた。インタビューでは、当時の心境を独特の言い回しで表現した。
「人を喜ばせようと思ったわけではない。誰かを勇気づけようとしたわけでもない。自分自身のためプレーをした。その結果、世の中の人に何かを感じてもらえたわけですよ」
高みに至るために、孤高に身を置く。それがイチローの流儀だ。一方で、自らを追い詰める1年は、神戸での自主トレでスタートさせていた。原点を「忘れられない」からだ。
オリックス時代、堅守巧打の外野手として知られた田口は02年、大リーグカージナルスに入団。1年先に海を渡ったイチローとは対照的に、1年目はマイナーに降格。2Aでのプレーも強いられた。
しかし、田口は腐らずに自分の生きる道を探した。守備固め、代打要員から商品価値を一歩ずつ高め、渡米4年目には114安打をマーク。06年にはワールドシリーズ制覇に貢献した。
頂点を知っても、原点は忘れない。震災の年の優勝は「世界一より重みがあった」。メジャーで輝いたころも、シーズンオフには神戸市内の病院を訪問し、子どもたちを励ました。
「神戸に元気を与えたいと思って来るんだけど、結局、元気をもらって帰るんですよ」。故郷での潤いは、過酷な競争を勝ち抜く源泉の一つだった。(敬称略)
2018/12/18