「あたう限り」のほころび

 昭和を代表する俳優の一人、石原裕次郎さんを知らない世代が増えているようです。享楽的に生きる若者たちを描いた「太陽の季節」で映画デビューしたのが1956(昭和31)年。原作者はのちに政治家になり、環境庁長官も務めた兄の慎太郎さんです。芥川賞を受賞し、夏の海辺で無軌道に遊ぶ若者たちを指す「太陽族」という流行語も生まれました。

 敗戦から11年。高度経済成長期の幕開けとなった神武景気の真っただ中です。当時の経済企画庁は経済白書で「もはや戦後ではない」と表現しました。

 この年の5月1日が水俣病の公式確認日とされています。原因企業チッソの付属病院長らが「原因不明の疾患の発生」を水俣保健所に届けた日です。患者は、当時2歳11カ月だった田中実子さんと、すぐ上の姉で5歳の静子さんでした。

 戦前から操業するチッソも日本の戦後復興、高度経済成長を支えた企業の一つです。その恩恵を受けたであろう都会の若者たちと、遠く離れた水俣で犠牲になった姉妹。いずれも同時代を象徴する「像」です。

 きょう、公式確認の日から68年を迎えました。高濃度の水銀を含むヘドロが眠った水俣湾埋め立て地では犠牲者を悼む慰霊式が営まれます。4月末、会場となる親水護岸を訪ね、「二度とこの悲劇は繰り返しません」と刻まれた慰霊の碑に手を合わせました。ただ、今なお被害に苦しむ人たちのことも忘れてはならないと思っています。

 昨年9月27日の大阪地裁判決は、原告128人全員についてメチル水銀による被害と認定しました。今年3月22日の熊本地裁判決は、原告144人全員の請求を棄却。うち26人の被害は認めましたが、損害賠償を請求する権利が消滅しているとしました。新潟水俣病を巡る4月18日の新潟地裁判決は、原告47人中26人の被害を認めました。

 3地裁の判断は分かれましたが、共通点が一つあります。原告の中に水俣病被害者が存在することを明確にした点です。2009年に成立した水俣病特別措置法は「あたう限りの救済」をうたいました。その特措法に基づく救済策でも救われずに、取り残された人がいるという事実を示しています。

 水俣病事件を巡る国の関与は特措法施行を最後にほぼ影を潜めています。原告たちの姿は国会議員や中央官僚の目にどう映るのでしょうか。あたう限りの救済のほころびは明らかです。

 世の中にも「水俣病裁判はまだ続いているの?」という認識が広がっていないでしょうか。石原裕次郎さんが時の流れで忘れられていくのは仕方ありませんが、68年たっても訴訟が続く現実は尋常じゃありません。粘り強く報道していきます。

 木村敬知事は県行政のトップとして初めて慰霊式に参列します。毎年5月1日に慰霊式で「祈りの言葉」を述べるだけが、水俣病事件に関する知事の仕事ではありません。県民の中に、長い間、苦痛を強いられて救いを求めている人たちがいます。思考停止せずに知事として向き合ってほしいと思います。(編集局長 亀井宏二)

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